なみおか今・昔30

石造文化財が語るもの(12)

 「北畠古城跡碑」は浪岡城の中心、内館にあります。この郭は城主の住んだ館と考えられ、発掘の成果からもその推測は認められています。また早くから公有地化されており、ほかの館と違う扱いをされてきました。
 「北畠古城碑」建立の計画が進められたのは、明治10年代のことです。浪岡八幡宮の神官阿部文助(あべ ぶんすけ)は、国学者下沢保躬(しもさわやすみ)に相談し、平野清助(ひらの せいすけ)ほか多くの人々の賛同を得て事業は展開したのです。その際、山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)の協力もあったといわれます。碑面の上部には「北畠古城跡碑」の6字につづき「明治十三年九月書」(1880)、「二品(にほん)熾仁(たるひと)親王(しんのう)」と刻まれています。熾仁親王は14代将軍徳川家茂のもとに嫁いだ皇女和宮の婚約者でしたが、幕府の政策の犠牲となり、2人は結ばれなかった話は有名です。なお、二品は皇族に与えられる官位です。
北畠古城跡碑
北畠古城跡碑
北畠古城跡碑拡大図(「二品熾仁親王」の刻字)
「二品熾仁親王」とも刻まれている
 以上の文字の下には「北畠氏城墟碑」と題した520字余の碑文が刻まれています。内容をみると、その第一は北畠氏の紹介と浪岡入りの過程、続いて浪岡における北畠氏の盛衰にふれ、最後にこの石碑が造立された経過を記しています。なお、碑文のあとに「明治十五年八月」のほか、碑文を選んだ佐佐木高行(ささき たかゆき)、文章を清書した金井之恭(かない ゆきやす)の官位と名前が記されています。
 さて碑文には「舘越北畠氏三春波岡氏譜諸書」によった旨を刻んでいますが、この点について大浦為信(おおうら ためのぶ)の浪岡攻撃の際、秋田氏の許に逃れた浪岡御所一族の子孫秋田季令は、記述に誤りがあると主張し、北畠古城跡碑造立の取り消し運動をおこしています。その動きは福島県三春町在住の浪岡芳夫氏から当町に寄贈された文書に記されています。またその文書は中世の館第2展示室に公開されています。
 造立後110年経た北畠古城跡碑は、今回の浪岡城整備でその位置を変えましたが、年とともに貴重さを増しています。浪岡城跡のシンボルとしての役割だけでなく、この碑から明治10年代の人々の動き、史観の変化をくみとることができるのです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)12月1日号に掲載


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