なみおか今・昔27

石造文化財が語るもの(9)

 「町内にない石碑」、前回とは違った見方をしましょう。「守親(もりちか)」の碑、これが今回のテーマです。
 浪岡御所北畠氏の墓には、東部りんごセンター(北中野)の南方に散在していた石塔群があてられています。現在、石塔群は2か所にまとめられ、「伝北畠氏墓所(一・二)」として町では文化財に指定しています。2か所の内北側のものには、「北畠累代墓」と刻まれた石柱が建てられています。しかし、南側の墓所には組み合わせの変わった五輪塔があるだけです。
伝北畠氏墓所(五輪塔)
伝北畠氏墓所(五輪塔)
泉岳寺に残る守親の碑
泉岳寺に残る守親の碑
 浪岡北畠氏の本流は北畠顕家(あきいえ)の子孫で、ほかに北畠顕信(あきのぶ)の子守親の系統が少し遅れて浪岡に入った、と津軽地方の研究者は考えてきました。そして標石のない南側の石組の一つが守親の墓にあてられてきたのです。明治天皇が浪岡から北中野・吉内を通られた明治14年(1881)前後から、浪岡北畠氏顕彰のムードが高まりました。「北畠古城碑」や「北畠累代墓」の石塔が造られたのは、明治10年代、今から110年ほど前のことです。
 同じころいわゆる北畠守親の墓、「伝北畠氏墓所(写真・上)」にも石標が造立されることになり、東京北品川の石工、片山苗五郎に発注されていました。
 この石標は完成しましたが、浪岡に運ばれることはありませんでした。品川に大火があり、火をかぶった守親の碑の表面は、大きくいたみました。
 しかし、この石標は捨てられず、現在も活用されているのです。所在地は同じ品川、高輪(たかなわ)泉岳寺(せんがくじ)の境内です。泉岳寺といえば赤穂浪士の墓が頭に浮かびます。守親の石標は四十七士の墓の参道にある「首洗井戸」の奥に残されています。
 石標の正面には「丹心照千古」、裏面にはいたんでいますが「言守親」の3文字が読み取れます。上部には「大納(言)」と刻まれていたのでしょう。右側には「明治十五年八月」左側には「陸奥国津軽浪岡村」「平野清助」「前田甚三□」や石工の名があります。
 町史編さん室では泉岳寺のご好意によりこの石標の調査を行い、拓本の1部を中世の館に展示しています。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)9月1日号に掲載


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