なみおか今・昔24

石造文化財が語るもの(6)

 今回も馬に関する石碑石像について考えたいと思います。上部に「馬頭観世音」や「惣染」、「尊前」などの文字を刻み、その下に馬を彫った石塔があることは、前回述べました。これとは別に馬頭観音の像を碑面に刻んだものがあります。五本松の碑は三面六臂(さんめんろっぴ)の像を浮き彫りにしています。
 明治時代も後半になると、江戸時代後期以来の伝統的な石碑は姿を変え、墓石のような形をした大型のものが多くなりました。正面には「馬頭観世音」の5字、ほかの面に造立年や造立者名を刻みます。
五本松の馬頭観音像
五本松の馬頭観音像
松枝の馬頭観音前の石馬
松枝の馬頭観音前の石馬
 馬頭観音の碑がある場所は集落のはずれとは限りません。道路脇のほか神社の境内に祀られているもの、吉野田や松枝のように独立した敷地を持ち、お堂や鳥居を持つ例もあります。浪岡町に近い青森市鶴ヶ坂の保食うけもち神社は、弘前藩の牧場に造立された惣染宮が長い歴史の中で姿を変えたものです。
 ところで、神社の境内や馬頭観音堂の前に、馬の石像が奉納されているのを見かけます。本郷の八幡宮には、2対4基の馬があります。狛犬のような役割をしているのです。
 このような石像が奉納されたのは、大正から昭和40年ころまでです。もっとも、北中野広峰(ひろみね)神社境内の石像は、平成4年建立の「若駒」です。その中でも造立の最盛期は、昭和10年代から20年代です。太平洋戦争をはさんだこの時期は、馬が農耕や輸送で活躍していました。馬に対する愛情と感謝の気持ちを示す石像記念物とみることもできましょう。奉納は、村人の厄除け祈願や、昭和15年(1940)の皇紀2600年記念などを契機にした例もあります。その一方で馬頭観音碑の造立は衰えたようです。
 ところで、下十川にある大正14年(1925)造立の碑は、黒鹿毛で11歳の馬の死をいたんで造立したことが記されており、飼い主の心情を察することができます。今回の調査で町内を回った際、石碑石像の前に、馬が好きな人参が供えられているのを見つけることができました。耕耘(こううん)機が馬に代わった現在も、馬に対する信仰は続き、村人のあたたかい心が感じられたのです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)6月1日号に掲載


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