なみおか今・昔20

石造文化財が語るもの(2)

 王余魚沢の入り口の墓地には中央に1基の石塔がたたずんでいます。碑面には、

  卯辰両歳
諸精霊有縁無縁等三界万霊
  維時文政七甲申歳八月
王余魚沢・天明の大飢饉供養塔
王余魚沢・天明の大飢饉供養塔

などと刻まれています。「卯辰両歳」は、天明3年(1783)と翌4年、今からおよそ210年前にあたります。中央の行から両年に死んだ人々の霊を供養するために造立した石塔であることがわかります。造立された文政7年は西暦1810年、8月とありますからおそらく秋の彼岸に間に合わせたものと思われます。
 碑面の下部には「王余魚沢村」と刻まれ、左右に人名が並んでいます。右側から中畑九良兵衛、越田忠右衛門、同才兵衛、同吉兵衛、同茂助、山口太左衛門、同太郎助、竹屋弥十郎、秋本与助、船水三四郎、同与三郎、同藤蔵、山内長九郎の13人、王余魚沢地区の皆さん!ご先祖の名前は入っていませんか?
 以上を整理してみますと、この石碑は天明の飢饉の際に餓死した人の供養塔で、おそらく27回忌のあとで造立の気運が盛り上り、造立されたものと考えられます。
 天明の大飢饉は、元禄・宝暦・天保の飢饉とともに有名です。天明の大飢饉では王余魚沢村の家数は以前の32軒からわずか4軒に減少しました。そして、18世紀末には11軒まで回復しています。彼等は餓死した多くの肉親や、高陣場(たかじんば)の坂を上がりきれず倒れた浮浪者を思い起こし、この石塔の前で冥福を祈ったことでしょう。
 このような供養塔は津軽だけでなく、東北地方各地に分布しています。平賀町岩館の「蛇塚」上の碑は天保3年(1832)、天明の飢饉で餓死した人々の50回忌の供養塔です。しかし造立した村人の中にはこの頃から続く天保の飢饉で死んだ人がいるのです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)2月1日号に掲載


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