なみおか今・昔19

石造文化財が語るもの(1)

 私達の周囲には庚申(こうしん)塔や二十三夜塔、百万遍(ひゃくまんべん)塔など多くの石造文化財があります。町史編集委員会では、これらの石造遺物の調査を進めてきました。今回は大釈迦の柳久保神社境内にある小祠の御神灯に焦点をあててみたいと思います。
 この石灯籠は1基だけで、火袋がありません。竿の部分には正面に「奉納御神灯」左側には「安政五戊午年八月」と刻まれています。西暦1858年、安政5年6月には日米修好条約が調印され、時代は大きく変わろうとしていました。幕末の社会不安もしだいに高まっていたのです。人びとの心は神仏に傾いていました。
柳久保神社境内小祠の御神灯
柳久保神社境内小祠の御神灯(右側)
 さて年代の反対側の面には奉納者、

  松前福山城下泊川
    心太屋善兵衛

の名が刻まれています。泊川は北海道松前町の集落で、前面は漁港になっています。昨年の夏、泊川に行きこの人物の伝承を調べましたが、十分な成果をあげることができませんでした。
 「心太」の2字は「ところてん」と読みます。しかし、これを「てん」と読むと、おもしろくなってきます。
 田名部(むつ市)からの恐山参道には「丁塚石」があります。約100mごとに距離を刻んだ石造の道路標識は、文久2年(1862)の恐山千年祭を前に、安政6年から造立され始めました。その中に、松前の「天屋善兵衛」が寄進した丁塚石が多くあります。彼は丁塚石奉納の中心人物で、海産物や北前船と関係が深い豪商と推測されます。
 恐山参道には西国や松前の豪商にまじって、大釈迦村の「伝十郎」と「高橋金之丞」が寄進した丁塚石があります。天屋と心太屋は同一で、善兵衛は安政5年に大釈迦村の2人に丁塚石の寄進を依頼し、交換に柳久保神社の小祠に御神灯を奉納したと考えることもできます。壊れた石灯籠も、さまぎまな歴史や人の動きを知っているのです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)1月1日号に掲載


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