早くから青森県が相撲王国と呼ばれ、隆盛を誇ってきた土壌は、一体何であったろうか?
「まわし一つあれば出来る相撲が、貧乏県に最も
津軽の相撲史は、いまから400年以上も前の天正年間(1573〜1592)、津軽為信公の時に初めて史料に現れてくる。『永禄日記』によると天正10年(1582)7月14日から「白銀に相撲あり、近年は相撲がなく、初めて見るということで群衆をなした」とある。白銀(村)は、現在の浪岡町銀のことで、久方ぶりに相撲が行われたものと思われる。
3代藩主信義(2代藩主
信政はことのほか相撲を好み、それまで弘前には川端町の土淵川河原に小さな相撲場があっただけであった。貞享元年(1684)4月15日、弘前城内西の
また、毎年時期を定め、弘前、青森、鰺ヶ沢、板柳の4か所に若者を集めて相撲大会を開催し、成績の優秀な者をお抱え力士として採用した。農工商の二男、三男からは出世の糸口として歓迎された。強い津軽の基礎がガッチリ築かれたのであった。
お抱え力士は「御旗の者」と呼ばれ、いざ戦の時は「
当時弘前藩では、相撲を取る際、力士は10日前から精進し、毎晩七ッ時から身を清め、岩木山を拝み、それから支度を整えて場所に臨むことになっていた。
こうして大衆の娯楽として定着していった相撲は、藩主が代々が相撲好きということもあって毎年のように相撲大会を開催した。
【町史執筆委員 今靖行】
『広報なみおか』平成14年(2002)8月1日号に掲載
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