今回は切り口をかえて、浪岡町内で見られない石造文化財の語をしましょう。
浪岡から本郷を回り黒石に行く道筋には、高館や安入の入口、長谷沢神社大鳥居横などに、「追分石」があります。『左○○右△△』のように方向を刻んだ道標です。長谷沢神社入口大鳥居横の追分石は県内最古、正徳4年(1714)の造立という貴重なものです。浪岡は幹線道路の交差するところ。追分石が多く残っていてもおかしくありません。しかし、町域には追分石が見当たらないのです。
文久元年(1861)に、弘前藩主は領内を視察しました。その時のコースを記した「御道割明細書」は、増館村の北端や浪岡村中央に「追分杭」があることを記しています。追分石は江戸時代後期に寺社参詣の人々のために造立したものが多く、費用も僧侶や村人の信仰心に頼っていました。一般の道路には木製の標識が建てられたようです。浪岡地域には大勢の信者が集まる寺社がなく、石も手に入れにくかったと、推測されるのです。
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恐山街道の丁塚石(19丁) |
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恐山街道の丁塚石(24丁) |
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成9年(1997)8月1日号に掲載
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