町村制施行により新しい村が発足したのは明治22年(1889)のことです。それでは国道7号で弘前に行くとき、浪岡村の南側はどんな村を通ったか考えてください(解答は文末)。
女鹿沢村の大字は増館・下十川・女鹿沢の3つでした。明治34年(1901)の人口は2,561人、戸数にして363戸ありました。このころの農産物には、米・むしろ・大豆・だいこん・じゃがいもなどがあげられています。じゃがいもは、明治時代後期に導入された作物です。そのころの「東奥日報」にはじゃがいもの食べ方の講習会開催を報じる記事がよくみられます。
りんごの栽培は明治末期で9町6反歩、3反歩以上作付けしている農家は6戸に過ぎません。野沢村や五郷村にくらべると、りんご農家は少なかったようです。しかし浪岡駅裏手には大規模農園の経営が進んでいました。
![]() |
(解答:女鹿沢 → 富木舘 → 常盤 → 十二里 → 藤崎 → 和徳 → 弘前)
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成8年(1996)8月1日号に掲載
![]() |
![]() |
![]() |