
中世油川にはどのような人びとが住み、生活していたのか。その重要なヒントが2つある。
1つは、現在も油川のほぼ中央部に鎮座する熊野宮であり、もう1つは、近世に弘前に移った浄土真宗寺院・円明寺と法源寺の2寺院である。
熊野宮の存在は何を意味しているか。熊野は、御師・先達(の制度のもと、中世には湊をはじめとする流通の結節点に居住する富裕商人を布教対象としていたことから、多くの富を蓄える商人層が、中世油川に住んでいたことになる。
▼九浦外町絵図(油川之図) |
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▲県立郷土館所蔵 |
また、2つの浄土真宗寺院があったことは何を意味するか。この時期、蓮如を中心とする「蓮如本願寺教団」を支えたのは、「海の有徳人(」とよばれる富裕商人たちであった。彼らのふるさとは、北陸地方や近畿地方であり、彼ら「海の有徳人」がいたからこそ、「蓮如本願寺教団」はこの地を布教の足がかりにすることができた。日本海沿岸を往来し、北方との交易を自由に行っていた北陸や近畿地方出身の「海の有徳人」達。彼らは、中世港湾都市油川を構成する重要な人びとであった。
熊野宮には、永禄2年(1559年)8月、波岡御所北畠具永(再建を伝える棟札がある。この棟札は、油川に、波岡御所北畠氏の勢力が及んでいたことを伝えている。油川は、当時の領主にとって重要な港湾都市であり、そこには、御用商人もいたことであろう。
油川は、まさに商人の町であった。町には、商人たちのほか、商人たちに仕えたり交易に使う船を動かしたりする人びとも多く生活していたであろう。その性格は、近世になっても引き継がれていくのである。
【中世部会執筆編集員 工藤弘樹】
※『広報あおもり』2001年11月1日号に掲載
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