
青森市内真部の海岸から西に約2.4キロメートル、平野が尽きて内真部川が山中に入る北側の山麓に、館(と山城の遺跡がある。実は、この地こそ鎌倉時代末期の文保(二年(1318年)ころに始まった有名な津軽大乱(安藤氏の乱)の中心舞台となった土地であった。
乱の顛末(を記した「諏訪大明神絵詞(」には以下のような記述がある。
「その(蝦夷管領(安藤太(の)子孫に五郎三郎季久(・又太郎季長(というは従父兄弟なり。(中略)彼らが留守の士卒(、数千の夷賊(を催し集め、外浜内末部(・西浜折曽関((現在の深浦町)の城郭を構えて相争う。二つの城険阻(によりて、洪河((現在の岩木川か?)を隔て、雌雄互いに決しがたし。」
 |
▲内真部館(写真右手の高い杉林の右側一帯)と山域(写真左手の山)の跡 |
この「外浜内末部の城郭」が内真部の館・山城の遺跡にあたるらしい。内真部館は、標高15メートル、比高差約3メートルの低い台地を2段に整地してつくられた、東西90メートル、南北120メートルの居館跡である。西面こそ外側に土塁(をもつ空堀(で囲まれているが、東面には防御施設がなく、開放的な構えであった。これは南方1.5キロメートルにある奥州藤原氏時代の居館跡「内真部(4)遺跡」と同じで、平安・鎌倉時代の館の一つの特徴である。また館の西、標高87.0メートルの山上には山城跡が残っているが、これも戦国時代の城と異なり、「臨時に造られた急ごしらえの城」という雰囲気を強く漂わせている。人工の跡が確認できるのは、入口(大手口)と、その西側の谷を加工して切岸((壁面を切り落としたもの)を設けた箇所、山頂への途中に設けた堀道(、山の麓を高さ2〜3メートルに削り落とした部分くらいであり、ほかは全く人工の跡が見られない。鎌倉時代末期の姿を留めた貴重な遺跡といえる。
そして、この内真部館の周辺には平安時代後期の遺跡が集中する。近くの内真部(4)遺跡からは平泉と同じ「手づくねかわらけ」も多数出土した。現在では全く人家のないこの地が、かつては外ヶ浜地域の一大中心地であったことが彷彿(とされるのである。
【中世部会長 斉藤利男】
※『広報あおもり』2001年8月1日号に掲載
|