![]() 北山は、明治3年(1870年)、南津軽郡浅瀬石村(現在の黒石市)に代々続く その後まもなく、政治を志し、明治36年に弱冠33歳で南津軽郡から県会議員選挙に出馬し、最高位で当選している。しかし、この時は、選挙直後に起こされた北山の当選を無効とする行政訴訟の結果、一年余で失職している。 明治40年に再び県会選挙で当選を果たし、明治44年、次いで大正4年の選挙でも当選するが、大正4年の選挙は選挙区を青森市に移しての当選だった。北山が青森市に居を移した理由は、青浦商会による対露貿易を本格的に行うためと、青森港修築問題により本腰を入れることにあったとみられる。
県会議員時代の北山の業績で、青森市にとって重要なものは、自らが「青森築港を唯一の主張とした」と述懐するように、青森港(第一期)修築問題に取り組んだことである。北山などの努力もあり、青森港は明治42年10月に第二種重要港湾に指定され、大正3年(1914年)から修築工事が開始されている。青森港の整備が進むと、通商貿易も拡大し、青森市が流通経済の拠点としての地位を確立していった。 北山は大正6年4月の衆議院議員選挙に青森市区(定員1名)から立候補し、次点で落選するが、この時の選挙で当選したのが工藤卓爾であった。 同選挙には後に第10代市長となる中野浩(当時東京在住)も立候補するなど激戦であった。県会に復職した北山は大正9年に再び衆議院選挙に立候補し、当選している。 こうして、北山は国政の場で青森港(第二期)修築問題に尽くすこととなった。しかし、任期途中に病で倒れるなどの不運に見舞われ、次の大正12年の選挙には立候補せず、病の癒えた昭和3年(1928年)の選挙にあらためて立候補するが落選している。 昭和期に入り、産業の発展、無産政党の誕生、小作争議、労働運動の進展など、わが国や青森市は大きな変化を迎えようとしていた。青森市における政治情勢も大きな動揺を見せ始めていた。 大正13年に市長となった阿部政太郎が任期半ばで辞職し、代わって東京在住の中野浩が大正15年に市長に推挙され、その中野に対する不信任が決議されたのは昭和4年2月だった。こうした動き自体が当時の社会情勢を反映したものであったことは当然である。 こうした中、昭和5年、任期満了となった中野浩と争った北山が第11代市長として当選した。 (敬称略) 【近・現代部会長 末永洋一】 ※『広報あおもり』2000年9月1日号に掲載 |
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