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大正6年(1917年)1月、工藤卓爾市長(第6代)が任期半ばで辞任すると、阿部は政友会の大坂金助ら旧勢力者の支持を得て、憲政会の寺井純司らの反対を押し切り、第7代市長に就任した。しかし、大正6年6月に実施された第7回市会議員総改選挙をめぐってその効力に関する訴訟が起こり、阿部は大正8年7月に市会議員選挙無効の責任をとり辞職し、工藤卓爾が3度目の市長に就任することとなった。 第7代市長時代には、青森県に高等学校の誘致問題が起こり、大正7年3月には県下の新聞社および県会正副議長発起の県民大会が開催され、挙県一致でその促進を図っていくことが決議された。しかし、候補地は青森市と弘前市との激しい誘致合戦となり、阿部市長らも臨時市会における高等学校敷地および寄附金の提供の決議を受けて政府に陳情した。このような状況の中、前知事の川村竹治らがその調停のための晩さん会を催し、両市長らが出席した。席上、青森市は商業地であるので、高等学校よりも高等商業学校の設立に務めるべき旨の意見が出され、青森市民の願いもむなしく、県内最初の高等学校は弘前市に設置されることとなった。 (敬称略) 【近・現代部会調査協力員 竹村俊哉】 ※『広報あおもり』2000年7月15日号に掲載 |
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