![]() 明治16年、青森県、北海道の正式巡回教師となったフォーリーは各地に教会を設立しました。県内では、弘前、青森、三本木、八戸教会などで基礎を開き、明治29年には青森教会の主管者となり、以来、大正4年に永眠するまでの間、その職にありました。
あるとき、採集に一生懸命になっているうちに日が暮れてしまい、フォーリーは皮バンドで自分の体を木の上にしばりつけ、一夜を過ごしてしまいました。ところが、その翌朝、山に柴刈りに来た村人がこのようすを見つけ、「異人さんが木の上でしばられて死んでいる。」と村の人たちに知らせたため、大騒ぎになったというエピソードがあります。 フォーリー神父の採集した植物の標本のなかで、新種と鑑定発表された約700種のうち、顕花植物(種子植物)と蘚類(スギゴケ・ミズゴケなど)が各200種、地衣類は100種を数えています。その中には「フォーリーガヤ」や「フォーリーアザミ」など、学名にフォーリーの名前が付いている植物もたくさん存在しています。 このように、明治のころの青森における植物研究は、主に外国の人によって行われていて、フォーリー神父のおかげで、青森の名が海外にも知られるようになりました。 フォーリー神父の死後、青森浜町教会(現カトリック本町教会)に収蔵してあった貴重な植物標本類は、京都帝国大学に寄贈されました。それは、当時、京都帝国大学理科大学生物学教室開設設計顧問だった郡場寛さん(後に弘前大学学長)や青森師範学校の木梨延太郎さんなどの尽力によるものでした。 【自然部会執筆編集員 原子一男】 ※『広報あおもり』1999年10月15日号に掲載 |
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