あおもり今・昔121

追分石と追分松

 明治5年(1872年)6月、県は「道路之義、何れ道有之ヶ所へ標木取建之義可致は勿論ニ候処、管内往還筋左右両道ニ分れ、道幅等も等しく不案内之者ハ行先難決ヶ所数多有之候ニ付、自今市在請前限申合分れみち有之ヶ所は中央へ左之通標木取建(以下省略)」なる通達を県内各村に発している。明治維新以降の近代化が進展する中で、県内における人的・物的往来も次第に活発になっていくが、道路が分岐する地点には行く先を明示する標木を建てることで往来を間違いなくさせようとの計らいであった。今日でも、「往還筋左右両道ニ分れ、道幅等も等し」の場合、道路標識がなかったなら、一体どちらに進めばよいのか迷うことも多いが、140年ほど前にこうした配慮がなされていたのである。もっとも、これはすでに江戸時代にも行われていた。「追分石」がそれである。
妙見地区にある追分石
▲妙見地区にある追分石
 「追分」は、追ってきた牛や馬をどちらか一方の道に「追い分ける」ことから生じた名称とされるが、それが転じて、それまでは一本であった道が二つに分かれ、それぞれ異なる方向に進みはじめるところを指すこととなったとされる。この「追分」の地点に建てられたのが「追分石」である。
 市内には、三つの「追分石」が現存している。一つは妙見地区にあり、文化4年(1807年)に建てられたもので「右 弘前」「左 横内」とある。右に進めば荒川・高田を経由し大豆坂を越え浪岡を経て弘前に、左に進めば横内に達することを示したものである。もう一つは、妙見から弘前方面に進み高田を抜け、大豆坂の手前にあり、「左 入内」「右 往還」とある。「左 入内」は文字通り入内に至り、「右 往還」は、「青森−弘前」往還(街道)という意味である。また、この「追分石」には「奉納観世音菩薩納経塚」と刻まれており、信仰的な意味もあろう。なお、ここには何代目かの「追分松」も植えられている。
 そして三つ目は、小館にあるもので「右 入内」「左 山道」と刻まれている。
【近・現代部会部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2003年12月1日号に掲載


前のページへ あおもり今・昔インデックスへ 次のページへ