あおもり今・昔102

入内観世音と下湯

 下湯は八甲田連峰に源を発する荒川の上流にある。下湯ダムが建設される(昭和49年建設着手)前はここに温泉客舎があり、薬師様も祭られ広々としたところがあった。客舎の周囲には溝をめぐらし、山からの引水によって、カジカガエルが鳴いていた。その下流に入内観音堂があり、現在でも「津軽三十三霊場」の二十四番札所となっている。
 この入内観音堂は伝承によると、大同2年(807年)坂上田村麻呂が「天下泰平、国土安穏、悪魔降伏」のために建立されたといわれている。
 ところで、この下湯には次のような伝承が残されている(「下湯根元記」から)。建久年中頃(1190年〜1199年)、阿部貞昌(さだまさ)という出羽の浪人がつがる外が浜の大破間(おおはま)(油川)に来て住んでいたが、ふとしたことから眼病におかされ色々と養生したけれども病は重くなり、それに脚気となったので、観音様の力で病を治そうとした。貞昌は病気快然のためにお堂に籠り観音様を礼拝すると、湧き湯に二十七日湯浴(ゆあ)みすると百病がよくなるという夢のお告げがあった。沸き湯への道々に兇徒(きょうと)がいるが、それらを退治して入浴することをすすめた。
 そこで貞昌はお堂を拝み、駒木野山からおとし沢へ出たがそこに大川があった。大川を段々川上に登って湯のありかを探したところ、山中に人家を見つけた。そこで観音様のお告げと萱家に入って案内を乞うと、出てきた男は、六尺豊かな大男で、月代もそらず髭長く、普通の人とは思えなかった。一人は大屋名兵衛といい、一人は霜結茶右衛門(しもゆうさえもん)といった。貞昌は、入内観世音の夢相によって沸き湯を尋ねてここへ来たと言うと、観世音の御心であれば仕方がないと中に入れた。家の中は隅々まで鹿猿(しし)の骨肉が軒とひさしに積まれていた。
入内観音堂
▲入内観音堂
 二人は浪人になる身をかたった。この山中に兇徒「津矢虎鬼(しやこ)」と「身図鬼(みつき)」の二ツの鬼がいて、この沢の上下に現れては、人びとを悩ませている。私たちは百度・千度と多く戦ったけれども勝負がつかなかった。茶右衛門の槍で鬼どもは逃げるけれど、また元の所に戻るという。大屋名兵衛と霜結茶右衛門は貞昌に帰ることを勧めた。貞昌は入内観世音のお告げの一点張り、どうか観音様のお力で鬼を退治してくれと頼んだ。
 二人は納得し、茶右衛門は大身の槍を引きさげ、名兵衛は三尺二寸の太刀で、津矢虎鬼と身図鬼と戦った。鬼は鉄の棒を振り廻し、火炎を降らせ、岩礫(つぶて)を雨のように投げ付け、鬼どもの声が山中に響き渡った。貞昌はこの有様を見て生きた気持ちがせず、「南無大慈大悲観世音」と一心に祈った。その祈りが観音様に通じたものか、入内の方から紫雲(しうん)が舞いかかり、雲の中から降ってきた矢は、雨あられとなって鬼どもに当たり、そのまま死んだ。その死骸を縄で結い、重石を付けて大瀧の下の渕に沈めた。今でもここを「津矢虎身図の沢」と言っているが、ここが二ツの鬼の住家であった所と言われている。
 貞昌は名兵衛、茶右衛門の案内で川上を登り、お告げの湯の湧き出る所に来て入浴した。これが薬湯で貞昌の百病はことごとく平癒(へいゆ)した。悦んで両人に暇を乞い、入内観音にお礼を述べて大破間(油川)に帰って一生無病に暮らしたといわれている。下湯は霜結茶右衛門の「霜結」からきた地名であると言われている。
【民俗部会執筆編集員 鈴木政四郎】

※『広報あおもり』2002年5月1日号に掲載


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