あおもり今・昔99

狼退治と生類憐みの令

 弘前藩国日記(弘前市立図書館蔵)宝永(ほうえい)元年(1704年)7月4日の条に、油川組新田村(現在の青森市大字新田)の19歳になる若者が狼を退治した話が載っています。それによると、2日の朝五つ時(午前8時ごろ)、近くの田んぼへ水引きに行ったら、いきなり狼が飛び出し襲ってきたので、持っていた熊手を振るって応戦し打ち殺してしまったというのです。さて、普通の世であればこんな話はちょっとした武勇伝になるのでしょうが、この時代は、かの「生類憐みの令」が全国津々浦々に厳しく施行されていたから大変です。次いで10日には油川組代官清野伊兵衛からの詳細な報告が記録されました。それには、若者には殺意がなく正当防衛であったことがまず述べられ、次に狼の検死の結果、長さ(体長)三尺三寸(約1メートル)。胴の太さ(胴回り)二尺五寸(約76センチメートル)。毛色薄赤く(あく)色。口の広さ八寸五分(約26センチメートル)。尾の長さ一尺五寸(約46センチメートル)。左の目玉抜け申し候など詳しく書かれています。致命傷は、屈強な若者が力まかせに振り下ろした鉄製熊手による頭部強打のようです。
 さて、この一件の処分は後日家老森岡民部から、「油川組新田村百姓まつ(男)を石神村(現在の青森市大字石江)へ村預けとする」と発表されました。若者まつに殺意がなかったことや、狼の屍体(したい)の取り扱いに違法がないことが認められて、処罰は軽くてすんだようです。
 「生類憐みの令」を制定した五代将軍徳川綱吉は、後継ぎの男子ができず困っていました。それは前世で殺生をした報いであるから、殺生を慎み、特に将軍は戌年(いぬどし)生まれだから犬を大切にするようにと進言されて、将軍はこの法を制定したそうです。
 「生類憐みの令」の最初とされているのは、貞享(じょうきょう)2年(1685年)7月の将軍の御成の道筋に犬猫が出ていても構わないというもので、その後も回を重ねて発令され、日本全土離島の果てまで行き渡りました。罰則は異常に厳しく執行され、犬を殺して死罪にされた人や、カモシカを殺して元禄4年(1691年)から18年間八丈島へ流罪にされた飯詰組石田坂村(現在の五所川原市大字飯詰)の人もいました。
 世に悪法といわれた「生類憐みの令」は、宝永6年(1709年)の綱吉が亡くなった10日後に廃法となりました。
 槻木館(つきのきだて)(現在の青森市大字築木館)の津川本家に伝えられた「築木館留帳」によれば、この法令が撤廃された後の享保8年(1723年)冬2月、浅虫村から高田村まで横内組と浦町組内69か村の農民を総動員し、大野村の(やち)で大がかりな狼狩りが展開されています。法令がなくなってからは官民一体で狼狩りが行われたわけです。
 なお、「組」は弘前藩領の地方行政区分のことです。例えば油川組とは、北は飛鳥村、南は孫内村、東は古川村、西は鶴ヶ坂村の内の26か村を指します。ここを治める代官は油川の代官所にいました。
【近世部会調査協力員 木村愼一】

※『広報あおもり』2002年2月1日号に掲載


前のページへ あおもり今・昔インデックスへ 次のページへ