あおもり今・昔94

中世の青森湊「堤ヶ浦」と「堤城跡」

 寛永三年(1626年)、津軽信牧(のぶひら)は家臣森山弥七郎に命じて、善知鳥(うとう)村から堤ヶ浦にかけての地に町づくりを行い、高岡(弘前)城下同様の特権を与えた(長谷川成一他『青森県の歴史』山川出版社、2000年)。いわゆる青森開港、近世都市青森の誕生である。しかし、それ以前、青森の地には港町が存在しなかったのだろうか。実は、近世に津軽家が作成した『前代暦譜(ぜんだいれきふ)』に次のような記事がある。
 「明応七年戊午(つちのえうま)(1498年)、この年、南部右馬頭(うまのかみ)政康の弟達磨(達子(たっこ)・田子の誤りか)弾正左衛門尉(だんじょうざえもんのじょう)康時、津軽外浜堤ノ浦へ来る。のち横内に築てこれに居す。」
寛文年間の「青森之図(青森御町絵図)」弘前市立図書館所蔵に記された堤ヶ浦の屋形
▲寛文年間の「青森之図(青森御町絵図)」弘前市立図書館所蔵に記された堤ヶ浦の屋形
 南部康時は光康ともいい、三戸南部氏の有力者で(政康の叔父とも弟ともいう)、田子城主であったが、津軽郡代(ぐんだい)として派遣され、のち横内城(現在の青森市横内にあった)を本拠とした人物である。それが最初は堤ノ浦、現在の青森市堤町付近に入部(にゅうぶ)したというのだ。
 この話は南部側の記録にも見え、『祐清私記(ゆうせいしき)』には「堤ヶ浦の屋形」とも記されている。南部氏「津軽郡代」の最初の本拠地。そこから、堤川の河口一帯に広がる港町と、大規模な城館(じょうかん)の存在が想像されてこよう。天文15年(1546年)の「津軽郡中名字(ぐんちゅうなあざ)」には「包宿(つつみのしゅく)」の名も記されていた。
 この「堤ヶ浦の屋形」は、近世に作成された青森湊の絵図にも、土塁で囲まれた「古館(ふるだて)」としてはっきり記されていた。「古館」は2ヵ所。堤川に沿った地で、1現在の松原一丁目11から堤町二丁目23〜25にかけて(旧東北本線の線路敷を挟んだ地)と、2松原二丁目12・13付近である。とくに2は「大古館」ともいわれ「東西百四十四間(約262メートル)、南北百六十間(約291メートル)」の壮大な城館であった。
 この地とその周辺こそ、近世都市青森に先立つ中世青森(当時「青森」の名はなかったが)湊発祥の地なのである。
【中世部会長 斉藤利男】

※『広報あおもり』2001年9月1日号に掲載


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