あおもり今・昔93

内真部の館と山城

 青森市内真部(うちまんぺ)の海岸から西に約2.4キロメートル、平野が尽きて内真部川が山中に入る北側の山麓に、(たて)と山城の遺跡がある。実は、この地こそ鎌倉時代末期の文保(ぶんぽう)二年(1318年)ころに始まった有名な津軽大乱(安藤氏の乱)の中心舞台となった土地であった。
 乱の顛末(てんまつ)を記した「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」には以下のような記述がある。
「その(蝦夷管領(えぞかんれい)安藤太(あんどうた)の)子孫に五郎三郎季久(すえひさ)・又太郎季長(すえなが)というは従父兄弟なり。(中略)彼らが留守の士卒(しそつ)、数千の夷賊(いぞく)を催し集め、外浜内末部(そとはまうちまっぺ)西浜折曽関(にしはまおりそのせき)(現在の深浦町)の城郭を構えて相争う。二つの城険阻(けんそ)によりて、洪河(こうが)(現在の岩木川か?)を隔て、雌雄互いに決しがたし。」
内真部館と山域
▲内真部館(写真右手の高い杉林の右側一帯)と山域(写真左手の山)の跡
 この「外浜内末部の城郭」が内真部の館・山城の遺跡にあたるらしい。内真部館は、標高15メートル、比高差約3メートルの低い台地を2段に整地してつくられた、東西90メートル、南北120メートルの居館跡である。西面こそ外側に土塁(どるい)をもつ空堀(からぼり)で囲まれているが、東面には防御施設がなく、開放的な構えであった。これは南方1.5キロメートルにある奥州藤原氏時代の居館跡「内真部(4)遺跡」と同じで、平安・鎌倉時代の館の一つの特徴である。また館の西、標高87.0メートルの山上には山城跡が残っているが、これも戦国時代の城と異なり、「臨時に造られた急ごしらえの城」という雰囲気を強く漂わせている。人工の跡が確認できるのは、入口(大手口)と、その西側の谷を加工して切岸(きりぎし)(壁面を切り落としたもの)を設けた箇所、山頂への途中に設けた堀道(ほりみち)、山の麓を高さ2〜3メートルに削り落とした部分くらいであり、ほかは全く人工の跡が見られない。鎌倉時代末期の姿を留めた貴重な遺跡といえる。
 そして、この内真部館の周辺には平安時代後期の遺跡が集中する。近くの内真部(4)遺跡からは平泉と同じ「手づくねかわらけ」も多数出土した。現在では全く人家のないこの地が、かつては外ヶ浜地域の一大中心地であったことが彷彿(ほうふつ)とされるのである。
【中世部会長 斉藤利男】

※『広報あおもり』2001年8月1日号に掲載


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