あおもり今・昔89

阿倍比羅夫と青森

 今回から、古代・中世〜近世(江戸時代)の歴史の歩みを、さまざまな話題を交えてご紹介していきます。

 阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、七世紀に多数の軍船を率いて日本海側から北方遠征(航海)をしたことで著名な人物で、青森県にも確実に立ち寄っている。では、具体的に、彼はどの地を歩いたのだろうか。『日本書紀(にほんしょき)』には、訪れた先の地名が当時の音で記されているため、現在残っている音との類似から、古来、さまざまな推測がなされている。
▼浅虫善知鳥岬絶景
浅虫善知鳥岬絶景
▲稽古館所蔵
秋田方面から北上した比羅夫は、まず有間浜(ありまのはま)蝦夷(えみし)を集めて大宴会を催している。これは深浦(ふかうら)から鰺ヶ沢(あじがさわ)あたりの浜辺であろう。ついで問菟(という)の蝦夷の進言で、後方羊蹄(しりべし)政所(まつりごとどころ )(政治を行うところ)を置いたという。この問菟については、明治時代から、青森の古名(こめい)善知鳥(うとう)」と結びつける説があり、また後方羊蹄についても、市内の後潟と関係づける説がある。しかし、その証明はなかなか難しい。
 後方羊蹄は、比羅夫の時代には「しりへし」と読まれていた。これはアイヌ語の「シリペシ」に近く、その意味するところが「水に臨んだ要害(ようがい)(地勢が険しくとりでのような場所)の地」であることからすると、これはむしろ十三湊(とさみなと)北方の権現崎(ごんげんざき)がふさわしい。とするならば、問菟は、その近くの小泊村(こどまりむら)の「土票(とひょう)」が注目される。
 なお、弘前市の熊野奥照(くまのおくてる)神社には、比羅夫が小田山(こださん)(八甲田山)の麓に熊野三所大権現(くまのさんしょだいごんげん)(まつ)ったという起源譚(きげんたん)(起源に関する話)が残されている。こうした比羅夫伝説の広がりにも興味深いものがある。
【古代部会長 小口雅史】

※『広報あおもり』2001年4月1日号に掲載


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