あおもり今・昔88

田中敬三と青森の経済界

 田中敬三は、青森商業会議所(現在の青森商工会議所)第6代会頭田中勇三の長男として、明治19年11月に生まれた。慶応大学理財科を卒業し、アメリカの石油販売会社の日本支店に勤め、石油販売経営を身につけた後、帰青してスタンダード社の青森野内支店長を勤めた。その後、家業を継いで海陸運送業を発展させた。
▼田中敬三
田中敬三
「青森商工会議所八十五年史」より
 田中は、昭和4年に常議員となり、本格的に青森商工会議所の運営に関わることとなる。昭和6年1月に渡辺佐助会頭と藤林源右衛門副会頭が辞任、副会頭の横内忠作が会頭に、常議員の千葉伝蔵が副会頭に就任し、田中は同年6月、1名欠員となっていた副会頭に就任することとなる。以後約10年間、副会頭職にあったが、昭和16年4月、第13代商工会議所会頭に就任した。副会頭に就任した時期は金融恐慌の最中で、また、会頭を務めていた時期のほとんどは太平洋戦争期であるなど、経済界にとって最も厳しい時代に正副会頭を務めることとなるが、田中は優れた才能と深い思索により、この困難な時代の商工会議所を指導していった。
 昭和18年8月に施行された「商工経済法」は、これまでの商工会議所のあり方を一変させ、統制経済のもとに一県一商工経済会の組織化を迫るものであったが、これを受け、青森商工会議所も弘前・八戸の両会議所との合併が進められた。同年8月30日に青森商工経済会設立総会が開かれ(認可は9月)、これに先立ち16日に会頭として田中が推薦された。以後、昭和20年6月に辞任するまで、青森県全体の商工業活動を指導することとなったのである(青森商工経済会は昭和20年10月に解散する)。
 戦後にあっては、いち早く商工会議所の再建に尽くすとともに、進駐軍との連絡窓口を設置するなど、混乱の続く青森商工業界の安定に努力している。また、事業家としては、石油販売業・損害保険代理業務などを行うとともに、青森信用金庫理事長として地元中小企業の金融対策にも腐心した。
 田中は、父の勇三とは違い、政界に全く関心を持たず、もっぱら経済界で実績を残すとともに、青森市公安委員長・日本赤十字社常務理事・青森家庭裁判所調停員など社会的貢献も数多い。昭和45年10月6日、84歳で死去した。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2001年3月15日号に掲載


前のページへ あおもり今・昔インデックスへ 次のページへ