あおもり今・昔87

藤林源右衛門(15代)と青森の経済界

 藤林家は、初代の移住が青森開港以前にまでさかのぼり、青森市を代表する旧家である。青森開港後は船問屋となり、弘前藩・箱舘奉行御用達(ごようたし)の豪商として栄えた。その15代目当主となる第15代藤林源右衛門は、明治8年、弘前の小宮山太平の二男として生まれ、中学卒業後、三井銀行に勤めているときに藤林家の養子となった。明治37年、養父の死によって当主を引き継ぐため、三井銀行を辞し、以後家業の回漕(かいそう)業を営むことになる。
▼藤林源右衛門(15代)
藤林源右衛門(15代)
「青森商工会議所八十五年史」より
 家業のかたわら市政にも参画し、明治43年から市会議員、大正6年には副議長となる。しかし、大正8年、息女の病気転地療養のため、神奈川県平塚海岸に長期滞在することを理由に、議員の辞職を申し出て認められている。
 青森商工会議所との関係は比較的遅く、昭和4年の役員改選で株式会社青森臨港倉庫代表として議員資格を得たのが最初で、すぐに副会頭に就任している。ちょうど昭和恐慌を間近に控え青森商工会議所が不況と闘う苦難の道を歩みはじめる時代であった。昭和8年6月、金融恐慌対策に忙殺された横内忠作会頭の退任の後を受け会頭に就任した藤林は、昭和16年3月までの8年近く会頭を務めることになる。
 藤林が会頭を務めた時代は、戦時統制へ向かって商権や権益をめぐる対立が先鋭化した時代でもあった。米穀統制をめぐる産業組合と米穀商、電気事業公営化をめぐる青森県と青森市、漁業組合連合会の共同販売所をめぐる漁連と問屋などの対立である。
 このうち、産業組合と商業者との対立抗争に対して藤林は、第三者的立場から調停する側に立とうとしたが、必ずしも有効な役割は果たせず、電気事業については、市の側に立って県と対抗したが、実現にはいたらなかった。戦時経済統制の進展のもとで、青森商工会議所の力や影響力もしだいに失われつつあったのである。 (敬称略)
【近・現代部会執筆編集員 玉真之介】

※『広報あおもり』2001年3月1日号に掲載


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