あおもり今・昔86

横内忠作と青森の経済界

 昭和恐慌時に青森商工会議所の会頭を務めた横内忠作は、東津軽郡野内村(現在の青森市野内)の富豪の家で明治10年(1877年)に生まれた。高等小学校卒業後、一時は第五十九銀行(現在の青森銀行の前身)に務めたが、上京して東京和仏大学校(現在の法政大学の前身)に入学、卒業後に当時の三井物産や大倉組、鈴木商店などと並ぶ商社であった浅野物産に入社した。この浅野物産の在職は2年ほどに過ぎなかったが、これが横内の実業家としての成功の鍵となる。
 浅野物産はロイヤル・ダッチ・シェルの子会社ライジングサン石油会社の特約販売権を持っていた。ライジングサン石油会社は明治38年に青森への進出を決め、青森市にタンクの建設を計画したが地主の反対で挫折、野内村へと立地を変更する。そのときに地元の説得に尽くしたのが横内の父親である横内正吉であった。この縁から横内は、浅野物産から青森全県・秋田県鹿角・北秋田・岩手県二戸・九戸におけるライジングサン石油会社の石油販売権をもらって帰郷、直ちにタンク商会という共同会社を興して石油販売の事業に乗り出したのである。
▼横内忠作
横内忠作
「青森商工会議所八十五年史」より
 この事業はガソリン発動船や自動車の普及もあって着実に成長を遂げ、大正10年(1921年)に東北タンク商会と組織を改め、横内は社長に就任する。横内が青森商業会議所の常議員になったのもこの年である。青森商業会議所は、昭和3年(1928年)になると商工会議所法の施行に伴って青森商工会議所になり、その翌年に横内は副会頭となった。そして昭和6年6月、渡辺佐助会頭の退任により会頭となったが、横内を待っていたのは、第五十九銀行の120万円費消事件に端を発した県下の金融恐慌であった。
 昭和6年11月、弘前銀行に始まり、第五十九銀行、三戸銀行、尾上銀行などが次つぎと取付による休業に追い込まれ、これに冷害による大凶作も重なり県経済はまったくの麻痺状態に陥る。青森商工会議所は、横内を先頭に人心安定のための広告をおこなったり、凶作救済資金の供給や時局救済県債の認可を求めて、政府への陳情に奔走した。この結果、翌7年には政府からの救済資金や県債認可による資金の手当により、青森市の経済も金融恐慌から立ち直る手掛かりを得たのであった。横内の会頭在任期間は、この金融恐慌の対策に追われた1期2年のみであった。
 横内は、政治には一切関与せず、その後も石油のほか西洋ローソク、石鹸、苛性ソーダの製造・販売、さらにシボレーの販売代理店など、一貫して実業家としての道を歩み、昭和21年に70歳で死去した。 (敬称略)
【近・現代部会執筆編集員 玉真之介】

※『広報あおもり』2001年2月15日号に掲載


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