あおもり今・昔81

大坂金助(初代)とその時代

 大正14年(1925年)3月18日、青森市寺町(現在の本町)正覚寺において、市政財界の巨星といわれた初代大坂金助の葬儀が1千人を越す会葬者を得て盛大に行われた。享年81歳であった。市議会議員としての活動は、2回の議長活動を含め36年におよび、大正12年には、33年4か月という最長期間で市会議員勤続表彰を受けた。このほかにも、県議会議員、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、青森政界では、政友会系の重鎮として権勢を誇った。
▼初代 大坂金助
初代 大坂金助
「青森商工会議所八十五年史」より
 初代大坂金助は、弘化2年(1845年)に青森市蜆貝町(現在の青柳および本町)で生まれたが、幼くして両親・兄弟を亡くし天涯孤独の身となり、一時は侠客(きょうかく)仲間に入ったともいわれる。しかし、明治5年(1872年)、青森町(現在の青森市)の大火を期に貸座敷業(かしざしきぎょう)で実業家に転じ、質屋・酒造業などで資産を築き、その資産をもとに堤川以東の広大な土地を買収して青森市一番の大地主といわれるまでに成長した。
 明治27年には、青森商業銀行を創設して初代頭取となったのをはじめ、青森電灯株式会社、株式会社青森倉庫、青森ガス株式会社などを次つぎと創設し、実業界でも活躍した。実業界の活動で特筆に値するのは、明治後期の青森商業会議所における活動である。
 大坂は、明治26年の商業会議所設立発起人に名を連ね、設立とともに常議員となり、明治33年から明治41年まで第3代目の会頭として5期勤めた。青森商業会議所は設立当初活動不振であったが、大坂が会頭を勤めた時期には、日露戦争後の商工業の活況を受けて毎月『青森商業会議所月報』を発行するなど活発な活動を展開した。とりわけ、明治39年の青森港の特別貿易港指定と明治41年の青森〜浦塩(ウラジオストク)間航路の実現には、農商務大臣への建議(けんぎ)など、大坂を会頭とする青森商業会議所の功績が少なくなかった。 (敬称略)
【近・現代部会編集執筆委員 玉真之介】

※『広報あおもり』2000年12月1日号に掲載


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