あおもり今・昔79

千葉伝蔵とその時代

 昭和11年(1936年)5月〜20年7月まで、わが国がかつてない悲惨な戦争へと突き進む困難な時期に、第13代〜15代、3期9年余にわたり青森市長を勤めたのが四代千葉伝蔵である。
 千葉は明治23年(1890年)、東津軽郡荒川村(現在の青森市荒川)に白鳥鴻章の三男として生まれたが、明治44年に三代千葉伝蔵(千葉三次郎)の養子となった。実父の白鳥鴻章は政治家として国有林解放運動などに尽くした人物であり、養父の三代千葉伝蔵は海産物商を営むかたわら、北洋漁業経営でも活躍した人物であった。千葉は、養父が大正8年(1919年)2月に52歳で死去したのに伴い四代千葉伝蔵を襲名し、家業の海産物商を継承することとなる。
▼千葉伝蔵
千葉伝蔵
「目で見る青森の歴史」より
 その後、千葉は家業の海産物商に精勤するとともに、青森県海産物商業協同組合長として、県の海産物商の経済的地位の向上に尽くし、実業家としては製氷会社、缶詰会社、焼竹輪会社の経営などに関わり、青森銀行・青湾貯蓄銀行・青森電燈株式会社の監査役や取締役なども歴任している。
 実業家として青森市・県の発展に尽くした千葉は、昭和3年、青森市会議員に当選して政界に進出し、以後市会議員8年、県会議員4年を勤めた後、青森市長に当選した。千葉が市長に当選した昭和11年は、青森市政上、最も困難なときであった。同年の衆議院議員選挙をめぐる選挙違反事件で、加賀英雄市長と市会議員11人が逮捕され、市政刷新と市会浄化を求める市民運動(愛市運動)が高揚していた。
 千葉の1期目における業績としては、三内墓地の新設や町会総代連合会の組織化などとともに、懸案であった青森漁港の修築着工があった。2期目には、油川町との合併を実現し、戦時体制強化の中で町内会の再編も実行している。しかし、昭和19年5月、千葉は市会の満場一致で3選されるが、昭和20年7月、薪炭(しんたん)市営問題の混乱に責任を感じ、突如辞任している。
 市長辞任後は県の水産業界の発展に尽くし、昭和34年には藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章している。昭和35年には三内霊園建設者として同園内に胸像が建てられたが、昭和37年12月29日、72歳で死去した。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年11月1日号に掲載


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