あおもり今・昔76

北山一郎とその時代(下)

 北山は、自らが「第二の故郷」とした青森市の第11代市長として、昭和5年(1930年)8月に就任した。当時はいわゆる「昭和恐慌」で農村は凶作、不作に見舞われるなど、経済状況は極めて悪化し、翌昭和6年(1931年)には「満州事変」が勃発するなど、内外ともに激しさを増していた時代であった。こうした情勢の中で地方自治の発展を図ることが北山に求められていた。
 北山が就任早々行ったのが市道舗装事業であった。青森市が商業都市として発展するためにも道路改修が必要であるとの信念と、さらには失業救済事業としてもこれを実施することが必要であるとの考えから実施しようとしたものであった。実施までには財源問題など困難なことがあったものの、延長1千126間(約2千50メートル)の舗装工事が実施された。また、隣村の大野村との合併が昭和7年(1932年)6月に実現し、青森市は人口8万人を数える都市となった。
▼青森電燈株式会社(昭和8年当時)
青森電燈株式会社(昭和8年当時)
「目で見る青森の歴史」より
 北山が最も苦労した市政上の問題は、電気事業市営問題であった。既に前市長時代から青森電燈株式会社の市営化が具体的に論じられていたが、昭和8年(1933年)3月、市会は電気事業市営化を決議し、これを受けて北山も市営化に向けて工作を開始した。しかし当時、青森県が県内電気事業の県営化を進めていたため、県と市は鋭く対立することとなった(昭和9年には県営化が実現する)。
 北山にとって個人的に嬉しかったのは、昭和8年5月から開始された青森港修築第二期工事の開始であろう。早くも大正8年(1919年)に青森港の第二期修築運動が開始され、青森商業会議所会頭樋口喜輔を会長、北山を副会長とする期成同盟会を組織し、第一種港指定と国庫による青森港修築を目指し、北山は日本港湾協会理事としてもこの実現に尽力していた。財源難など幾多の困難があったものの、北山らの粘り強い運動が遂に実を結んだのである。
 昭和9年8月に北山は任期満了となった。北山は再選を目指したが、8月の選挙では一票の差で加賀秀雄に敗れた。しかし、この選挙は不正(いわゆる「棒引き事件」)が発覚し無効となり、改めて同10月に選挙が行われ、加賀秀雄が再度選出された。
 市長を辞めた北山は、これ以後は「陸奥運河開削」問題などに取り組むものの、目立った政治活動はしていない。晩年には(株)青森映画劇場を創立し、映画劇場の運営に参画した。本館は近代的な映画館として市民に歓迎された。北山は、昭和24年2月12日、青森市で死去した。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年9月15日号に掲載


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