あおもり今・昔71

淡谷清蔵とその時代(下)

 市制施行したばかりの青森市が最も力を入れて取り組んだ政策は、青森港の外国貿易港としての開港であった。
 当時、ロシアではシベリア鉄道を建設中であり、米国では中米に大西洋と太平洋を結ぶニカラグア運河(後にニカラグアに代わり、パナマに運河を開削する)を開削していた。青森市民はシベリア鉄道の終着地であるウラジオストックと北米間航路の中継地として、本市が東アジアの中心的貿易都市となるべく期待をふくらませていた。そこで、青森市の政財界は政府に対し猛烈な開港運動を展開することになる。清蔵は明治36年(1903年)に衆議院議員に当選すると地元の請願を国政の場で代弁し、ロシア航路開設に向けた「ロシア期成同盟会」を設立するなど、運動の中心にいた。明治39年に念願がかない、青森港は特別輸出港として開港した。明治42年にはロシア航路も政府の指定を受け、青森はロシア航路開設でわき立った。
配水本管敷設工事のようす(明治42年)
▲配水本管敷設工事のようす(明治42年)
 また、清蔵は社会教育にも理解が深く、明治31年に青森青年倶楽部の発起人になると図書館の設立を企画し、自らの家屋を提供している。そして、その家屋が明治40年には市立図書館となった。
 このように活躍してきた清蔵の政界における締めくくりは、明治41年の第4代市長就任であった。浅虫で静養中の清蔵に出馬を要請する市民大会の実行委員の説得により、担がれた形での就任であった。就任翌年には念願の青浦(青森−ウラジオストック)航路が開設され、さらに、水道事業も完成した。その一方で、明治43年に発生した青森大火後の復興も行った。しかし、水道事業完成に際し、水道部の職員などに慰労金を支給したことが議会で問題となり、清蔵は引責辞任、そのまま政界から引退した。
 清蔵の後は、長男の忠蔵が政界で活躍することになるが、清蔵自身は青森の政財界に幾多の功績を残し、大正12年(1923年)に逝去した。 (敬称略)
【近・現代部会調査協力員 宮本利行】

※『広報あおもり』2000年7月1日号に掲載


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