あおもり今・昔69

芹川得一とその時代

 芹川得一(せりかわとくいち)は安政4年(1857年)、旧弘前藩士の芹川高正の長男として生まれた。東奥義塾に学び、キリスト教に入信、母校で英語と算術の教師として後輩の育成に努めた。
 後に政界に転じ、明治22年(1889年)弘前市制施行後の第1回弘前市会議員に当選、明治24年8月には、府県制施行後の第1回県会議員選挙に弘前市から出馬し、当選後、第5回選挙まで連続当選を果たし、県参事会員を務めた。
 明治36年12月に第2代青森市長の笹森儀助の辞職にともない、当時自由党系が大勢を占めていた青森市会は、県自由党幹部であり、学識経験の豊かな芹川を市長に選任し、明治37年1月、芹川は第三代青森市長に就任した。
▼芹川得一氏 
芹川得一氏
「目で見る青森の歴史」より
 芹川の市長就任中の功績は、長年青森市民が熱望してきた青森港の外国貿易港としての開港およびウラジオストク航路開航の実現であった。当時は、青森・上野間を結ぶ東北本線と奥羽本線が全通し、青森港の重要性が認められていた。さらに野内村(現在の青森市野内)のライジングサン石油会社が東南アジア方面から石油を輸入したり、またりんごおよび鉄道枕木が満州や朝鮮方面へ輸出されるなど、実質上外国貿易が行われていた。
 開港の請願運動はそれ以前にも見られたが、実現には容易に至らず、芹川市長は寺井純司代議士(元弘前藩士)や工藤卓爾市会参事会員らと開港促進に奔走した結果、明治39年3月、特別輸出港として開港が指定され、函館税関青森出張所が設置された。
 開港により、本県産のりんごが臨時船によってウラジオストクに輸出されるようになると、さらにウラジオストクへの定期航路の開設を望む声が高まり、ついに明治42年6月より大阪商船株式会社の交通丸が就航することになった。その結果、りんごの輸出はもちろんのこと、その後満州産の大豆(味噌や醤油の原料)や豆粕(肥料)の輸入もさかんになった。
 そのほか、芹川は笹森前市長が計画した青森水道事業を予算化し、国費・県費の補助を得て、明治40年に起工するなど社会資本整備にも力を注いでいる。
 明治41年12月、任期満了となり、市長の座を退いた後、同43年には弘前の第五十九銀行(現在の青森銀行)頭取に就任した。その後、大正11年(1922年)に病気を理由に退任し、翌年2月19日、66歳で永眠している。 (敬称略)
【近・現代部会調査協力員 竹村俊哉】

※『広報あおもり』2000年6月1日号に掲載


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