あおもり今・昔66

工藤卓爾とその時代(下)

 工藤卓爾(たくじ)は、初代(明治31年7月4日〜明治35年4月19日)、5代・6代(明治43年4月22日〜大正6年1月13日)、8代(大正10年2月28日〜大正13年11月4日)の計4期通算13年余にわたり、市長として青森市政の発展に尽くした。
 初代市長の工藤にとって最大の課題は、水道敷設問題であった。当時の青森の飲料水は悪水で有名で、早くから水道施設の要望があったが、明治19年(1886年)のコレラ、明治24年の腸チフスの大流行により、世論も一刻も早い水道施設を求めていた。明治31年には「青森水道期成同盟会」が結成されたほか、市制施行によりさらに運動に弾みがつくこととなった。
 しかし、残念なことに、日露戦争の勃発などで着工はのびのびとなり、ようやく工事が開始されたのは明治40年4月であった。
 また、弘前市、八戸町(現在の八戸市)に遅れはしたものの、明治34年、青森第三中学校を開設させたことは、明治44年の県立女子師範学校や大正2年の市立工業徒弟学校の設立とともに、教育者としての一面を持つ工藤の面目躍如(めんもくやくじょ)たるものがあった。
合浦公園に建立された彰徳碑写真
合浦公園に建立された彰徳碑
 工藤は衆議院議員選挙に立つため、任期途中で市長を辞するが、このときは落選している。その後、明治43年、第5代市長として再び市政運営を託される。
 工藤が市長に再任されて間もない明治43年5月3日、青森市は死者26人、焼失家屋5千246戸におよぶ大火災に見舞われた。工藤は東京市(現在の東京都)に(おもむ)き、自ら街頭に立つなど義援金募集にあたるとともに、復旧事業推進の陣頭指揮をしている。さらに、復興事業の中で立案された「都市計画」では、防火線の設置などを実施するが、こうした取り組みは全国的にみてもきわめて早いものであった。
 第5代の任期満了を迎えた工藤は、次期市長選出を巡るごたごたを経験するが、引き続き第6代市長として再任された。しかし、このときの対立がその後も尾を引き、わずか9か月足らずで辞職することとなる。
 辞職後間もなく、大正6年(1917年)4月の衆議院議員選挙に立候補し見事に当選を果たし、しばらくは国政において活躍する。
 工藤が4度目に市長に選出されるのは、大正10年2月のことである。工藤の後を継いで第7代市長となったのは阿部政太郎だったが、市政は派閥対立などが続き、大正8年10月に阿部は辞任。市会には解散命令が出される有様(ありさま)であった。ようやく収拾が図られる中で再び工藤の登板となった。第8代の任期中には、明治39年に貿易港に指定された青森港の国営修築を目指して奔走している。
 その後、工藤は、病気のため大正13年11月辞職し、家庭で静養することとなるが、翌14年7月20日逝去、享年67歳であった。
 写真は工藤の遺徳を(しの)んで大正15年7月、合浦公園に建立された彰徳碑である。
 なお、第26〜29代青森市長であった工藤正は工藤卓爾の孫にあたる。
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年4月15日号に掲載


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