あおもり今・昔65

工藤卓爾とその時代(上)

 青森市は去る平成10年(1998年)に市制施行100周年をむかえた。
 この100年における政治、産業・経済、文化などの発展は目覚ましく、北東北の中心都市としての位置を不動のものとしている。このような発展と繁栄は多くの市民のたゆまぬ努力の結果であるとともに、その時どきの市政や産業・経済の発展を巧みに推し進めてきた人びとの存在も大きかったことを忘れてはならない。
 今回から1年間「あおもり今・昔」では、明治31年(1898年)の市制施行から第2次世界大戦終了の昭和20年(1945年)までの間にあって、本市の政治、産業・経済の発展に尽くしてきた青森市長および青森商工会議所会頭を取り上げ、人物像とその時代について紹介していきます。

 工藤卓爾(たくじ)は江戸末期の万延元年(1860年)、弘前藩士・中田新の二男として生まれ、12歳のときに弘前在住の工藤家の養子にむかえられ工藤姓となり、13歳となった明治4年(1871年)に、大野村(現在の青森市大野)に移住した。
 明治8年7月、弱冠17歳で青森小学校教員試補となり、翌明治9年には6等、さらに5等教員に任命され、その後、青森師範学校を卒業、明治16年には青森小学校校長になったが、同年12月には依願退職し、青森県御用掛准判任(ごようがかりじゅんはんにん)として県庁に奉職した。
 半年余の県庁勤務の後、明治17年7月には陸奥新聞に主筆としてむかえられたが、明治19年2月に青森県会議員に当選し、政治家としての途を歩み始めることとなった。
▼初代青森市長 工藤卓爾
初代青森市長 工藤卓爾
「目で見る青森の歴史」より
 明治22年4月に「町村制」が施行され、青森町が誕生するが、工藤は同年5月の選挙で青森町会議員(第2級)に当選した。なお、初代町長は柿崎忠兵衛である。
 その後、大日本帝国憲法が発布され、国会が開設されると、工藤は阿部政太郎(後の第7代青森市長)らと陸奥改進党を結成して国政を志し、青森第1区(東津軽・上北・下北・三戸の各郡)で、第1回から第3回の衆議院議員選挙に立候補し、明治25年2月の第2回選挙で当選を果たした。
 当時、本県では、大同派(自由党)が優勢であったが、青森町は改進党の地盤であったため、工藤は本県選出で唯一の改進党議員となった。
 明治27年3月の第3回選挙で落選した後、再び新聞社(北海道江差町)に勤務していたが、明治29年9月、青森町長に就任することとなった。当時の青森町は、「町村制」施行当時からの念願であった「市制施行」を目指していたが、工藤は就任早々念願成就に努力し、古川、浦町両村との合併により、明治31年4月1日に青森市が誕生した。本県では明治22年の弘前市に次ぐ市制施行であった。
 なお、工藤は、町長在職当時からの課題であった1対露貿易の促進と青森港の重要港湾指定2水道敷設問題3「中央停車場」設置問題などに対し、長年にわたり、その実現のために努力を続けた。
 さて、市制が施行された明治31年に第1回市会議員選挙が実施された。
 当時の青森町にあっては長らく実業家が町政に大きな影響力を持ち、彼らは大坂(金助)派と淡谷(清蔵)派に分かれ争っていたが、中央政界における自由党、進歩党の大同団結を受けて両派が提携し、工藤はこれに推されて初代青森市長に当選した。
 以後、工藤は前後4期、計13年余にわたって青森市長として本市の発展に尽くすこととなる。
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年4月1日号に掲載


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