あおもり今・昔40

油川城と大浜

 津軽藩の記録によると、天正13年(1585年)に油川城は為信(ためのぶ)の攻撃によって落城し、城主奥瀬氏は田名部方面へ逃れたとある。しかしながら、油川城に関しては、どのような建造物があり、どのような生活が営まれていたのかというような記録は全くない。そこで考古学の登場である。
 現在、油川城の周辺は畑地と植栽地になっており、注意して見ると堀跡や土塁の痕跡が明瞭に残っている。特に、油川や西田沢の市街地を望む丘陵の先端部から、西側にある堀跡までの平場(曲輪(くるわ))では、畑の(うね)から陶磁器などが採集できる。
油川城と遺物の採集地
▲油川城と遺物の採集地(西田沢字浜田)
 その内容をみると、中国製の青磁(せいじ)白磁(はくじ)染付(そめつけ)といわれる陶磁器、日本産の瀬戸美濃(せとみの)越前(えちぜん)などの陶磁器、朝鮮で作られた陶磁器があり、茶臼(ちゃうす)、鉄鍋や鉄釘、坩堝(るつぼ)といわれる鋳銅の用具、銭貨や銅製の金具類、そして棹秤(さおばかり)(おもり)など多様な生活用具が発見されている。
 年代的には15〜16世紀のものがほとんどで、同時期の城館である浪岡城ときわめて類似した状況にある。
 一般的に、津軽地域に入る物資の荷揚げ港は十三湊(とさみなと)と考えがちであるが、15世紀末〜16世紀の陶磁器は、十三湊からほとんど出土しない。そのため、この時期の主要な港の筆頭候補として、「大濱」つまり油川の地を想定できるのである。その根拠として考えられるのが、陶磁器を中心とする遺物群である。またこれらの遺物群は、海上交易の盛んな様子をも示している。
 海上交通を中心に発展してきた、現在の青森市のルーツを考えるとき、中世後期における油川城・大浜湊の存在は、ますます重要となってくるだろう。
【考古部会執筆編集員 工藤清泰】

※『広報あおもり』1999年3月15日号に掲載


前のページへ あおもり今・昔インデックスへ 次のページへ