あおもり今・昔26

三内丸山遺跡の終焉

 縄文時代中期末(約4千年前)には、それまで大規模な拠点集落であった三内丸山遺跡に、人の姿が見あたらなくなった。おそらく、集落が移動し、さらに拡散・分散したためだと考えられている。
 その理由として、
1 気候が寒冷化し、海が遠くなり、針葉樹が増えたために食料が減少した
2 祭りや宗教など、これまでと違う新しい社会の仕組みになった
3 長い間、同じ土地で生活したために環境汚染や伝染病などが発生し、この場所では生活できなくなった
などが考えられているが、今のところ結論は出ていない。
雪の三内丸山遺跡
▲雪の三内丸山遺跡
 三内丸山遺跡後半の集落の様子を見てみると、少しずつ変化していることが分かる。まず、土地利用の規制も緩やかになり、徐々に集落が小さくなっている。また、建物に使われる木柱も細くなり、技術の進歩と理解することもできるが、森林資源の減少とも受けとれる。祭りの道具も一時的ではあるが、減少する傾向を示し、土器も円筒土器から東北南部の大木(だいぎ)式土器の影響を強く受けて変わっていくのである。
 いずれにせよ、三内丸山集落はそれまでの集中型の居住形態から、拡散・分散型の居住形態へと変わってきたようである。
 そして、人々は、これまで集落がほとんど作られることがなかった丘陵や谷筋などにも居住しはじめていったのである。
 そして、大規模集落は減少していき、小牧野遺跡に代表される縄文時代後期へと続くのである。
【考古部会執筆編集員 岡田康博】

※『広報あおもり』1998年8月15日号に掲載


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