あおもり今・昔24

縄文の大集落 三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は、縄文時代前期中ごろから中期末にかけての拠点的な大集落跡である。平成4年からの発掘調査で、これまでの縄文文化のイメージを大きく変えるような発見が多数あった。
 三内丸山遺跡の特徴は、縄文時代の集落の全体像や、当時の人々の生活の様子が具体的に分かることである。また、この集落のさまざまな施設は、場所を決めて造られていて、竪穴住居跡・大型竪穴住居跡・掘立柱建物跡(高床建物跡)・大型掘立柱建物跡・墓(大人の墓・子どもの墓)・盛土・貯蔵穴・粘土採掘穴・道路跡などが発見されている。
大型掘立柱建物跡
▲大型掘立柱建物跡
 なかでも大型住居跡は長さが約32メートルもあり、床面積は約80坪ほどもあった。大型掘立柱建物跡は、直径約1メートルの太い柱を使った高層の建物と考えられている。一方、盛土は厚さ約2.8メートルも土を盛り上げており、これらは大勢の人々の共同作業によって造られた。
 大人の墓は、道路をはさんで向かい合うように2列に並んでいて、道路と墓は約420メートルも海の方へと続いていた。このことからも、三内丸山の集落が大規模であったことが分かる。
 大量に出土した土器や石器は「ものづくり」が活発に行われていたことを、そして1千200点以上も出土した土偶は、“まつり”が長い間大規模に行われていたことを示している。そして、ヒスイ・コハク・黒曜石・アスファルトなどさまざまなものが、ほかの地域から交流・交易によって運ばれていた。
 三内丸山遺跡は、青い森と青い海の恵みに支えられた大集落であったといえる。
【考古部会執筆編集員 岡田康博】

※『広報あおもり』1998年7月15日号に掲載


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