あおもり今・昔13

戦時産業

 青森工業高校の西部に、「相野(あいの)」という地区がある。古くは古川と沖館とを結ぶ道の中程の集落で、周囲は田であった。そこに昭和19年当時、日本最大の軍需産業である飛行機工場があった。それより前の昭和8年、油川町(当時はまだ青森市に編入されていなかった)に民間の飛行場が開設し、同じ年に市民の募金によって戦闘機1機が陸軍に献納され、その祝賀式が合浦公園の競技場で行われた。そのころから、わが国の戦時色が強まっていった。
▼木製飛行機の生産にはげむ人達
木製飛行機の生産にはげむ人達
▲「青森空襲の記録」より
 「相野」に工場が設けられたのは太平洋戦争が始まってからであったが、そのころはすでに材料が欠乏していたこともあってか、ベニヤ板を使った飛行機(戦闘機)が製造されていた。もちろん、これは実戦に使われたものではないが、組み立て・塗装されたものは、外見上は本物と変わらないもので、各地の飛行場に配置され、あたかも戦力を保持しているかの観があった。
 また「八重田(やえだ)」には、輸送船建造のため造船会社が設立され、そこでは木造船の建造がなされた。その材料となったものに、旧奥州街道をはじめとする並木の松が使われた(その造船会社跡地には現在、八重田浄化センターが建っている)。
 これらについての記録は、当時の国策会社ということによるためか、記録されたもの(写真を含めて)は、ほとんど残っておらず、当時の関係者から聞く以外に手段がないのが現状である。
 ここにも、記録することの大切さが感じられてならない。
【民俗部会調査協力員 三上強二】

※『広報あおもり』1998年2月1日号に掲載


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