あおもり今・昔12

ねぶた・ねぷた

 「ねぶた」はもともと盆の先祖供養に関連して始められ、その後に七夕行事が加えられたものである。津軽の領土領有の承認のことで藩祖津軽為信(ためのぶ)が京都に行って豊臣秀吉に面謁(めんえつ)したのが文禄2年(1593年)のことであった。
▼昭和初期のねぶた
昭和初期のねぶた
▲青森市発行「目で見る青森の歴史」より
 その後家臣を滞在させていたが、京都の盆中に大型の灯籠を作って火を入れたものを家臣によって都大路を練り歩いたのが評判になり、その後も盆行事として続けられ、国元弘前でも行われるようになった。そしてそれが定着し、一般の人にも行われるとともに、「七夕」・「豊作」祈願が加えられるようになった。
 また京都では当時の公卿(くぎょう)の代表とされた近衛家から「牡丹」の紋章を与えられて使用するようになった(今のねぶたでも人形を載せる台「こう欄」の周りにその紋が描かれている)。
 青森の「ねぶた」、弘前の「ねぷた」と名称が区分されたのは昭和26年ころからのことで、それまではどちらの名称も使われていた。また、型も古くは人形型(組みねぶた)が多くみられたが、明治の中ころから弘前の扇型(絵を鑑賞)、青森の人形型(造型を鑑賞)となってきた。
 また囃子は岩木山の登拝の際の囃子からアレンジされたもので、弘前では登山囃子(テンポがゆるい)、青森では下山囃子(テンポが早い)からとされている。
 そして登拝を終えての歓びを表したリズムとそれにのっての踊り(跳ねる)によって、実りを待つ人々の歓びを表現したものである。
【民俗部会調査協力員 三上強二】

※『広報あおもり』1998年1月15日号に掲載


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