あおもり今・昔6

五連隊のこと

 明治8年青森(筒井村)に営兵所が設けられ、翌9年には歩兵第五連隊が設置された。さらに明治18年には歩兵第四旅団(歩兵第五連隊と歩兵第十七連隊)が編成され、規模が拡大されていった。
 連隊に至る道筋は、そこに入営している兵士の家族が面会に訪れるなどのことがあって、大いに賑わった。中でも、堤町は活気にあふれ、一時は市内第一の趣すらあった。商店が並び、映画館があり、飲食店があった。 当時は連隊まで行く交通手段が、歩いていくか乗合馬車で行くかしかなかった。その乗合馬車の発着所だったのが、堤町の角にあった「小田九(おだく)」のそば屋で、遠くから面会に来た人達の待合所でもあった。ちなみにそのころ、荒川・大野方面へ行く乗合馬車は柳町からで、待合所であったのが「(かねしめ)」のそば屋であり、沖館・油川方面への馬車は、古川跨線橋下から出ていた。この風情は、今純三作のエッチングによる小品集に見ることができる。
▼旧歩兵第五連隊兵舎
旧歩兵第五連隊兵舎
▲青森市発行「目で見る青森の歴史」より
 五連隊の設置によって、隊に調度品や食料品などを納入する業者も工場や営業所を開設した。その中でも規模の大きかったのが、五戸から移ってきた「和田寛(わだかん)」であった。味噌・醤油が主なもので、隊の拡張にともなって施設も拡大され、多くの人が働いていた。その工場の近くには、製樽業者や運搬のための荷馬車を業とする店があった。
 また、連隊の将校官舎が立てられていて(現在の藤聖母園)、その道路側には松並木があって、「松原通り」と言われたものであった。
【民俗部会調査協力員 三上強二】

※『広報あおもり』1997年10月15日号に掲載


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