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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第189号(2015年12月18日配信)

堤川の「氷ビジネス」(担当:工藤)

こんにちは!室長の工藤です。

安政元年(1854)3月に日米和親条約が締結され、箱館が開港地の一つになりました。これをきっかけに、青森町の商人たちも、外国人との交易という一種のビジネスチャンスを手にすることになりました。ただ、外国人との商売はトラブルもしばしば発生したようで、なかには大損をするケースもありました。

さて、明治2年(1869)12月、横浜で外国人と取引をしている商人、中川屋嘉兵衛の手代の二人が青森浜町の豪商滝屋を訪ねます。訪問の目的は、冬の青森で氷を買い付け、それを蒸気船で横浜に運んで保存し、夏の炎暑の頃に横浜で販売しようということにありました。中川屋は氷の販売を「国益になる」と主張しているので、外国人への販売を意図していたものと思われます。

中川屋では既に数年前から「南部釜石」などの氷を販売していましたが、早々に解けてしまうため利益が出ませんでした。そこで、「寒国」津軽に目が付けられたのです。採氷地は、三内村・石神村などが候補地になりますが、輸送コストを考慮した結果、氷結した堤川の「川上」からの採氷ということになりました。

大正10年頃の堤川雪景
大正10年頃の堤川雪景(『目で見る青森の歴史』より)

滝屋はこの計画を「未曾有の珍事」といいながらも、弘前藩の重役の後押しもあって協力します。しかも、この年は凶作で、青森町とその隣村・浦町村でも「極窮民」がたくさん出ていたので、採氷作業はこうした人たちへの救済対策と目論まれたのです。また、稲作が基幹産業である当時の津軽にとっては、冬場の「氷」が商品として成り立てば新しいビジネスの誕生となるため、滝屋もそれに期待していました。

ところが、この年は例年にない厳冬で厚い氷を採氷できたものの、肝心の青森―横浜間を輸送する蒸気船が青森に入津しません。計画では、翌明治3年1月下旬に入津することになっていて、それに氷を積み込む手はずになっていました。中川屋の手配に何か問題があったのでしょうか、滝屋も気をもんでいますが船は一向に入津しないまま3月を迎えます。この頃になると、さすがの青森も暖かくなってきます。

せっかく切り出した氷も、とうとう解け始め、ついには処分されることになりました。こうして、堤川の「氷ビジネス」はあっけなく潰えてしまいました。なお、中川屋と津軽を結びつけたのは河津祐邦(かわづ・すけくに)という人物です。彼は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の子孫であるといい、江戸幕府の役人として五稜郭建設に際しては「普請掛組頭」を務めています。また、ちょんまげ姿の団体がエジプトのスフィンクスと一緒に写っている写真をご存知ありませんか(幕末遣欧使節団)。河津はこれに副使として参加しているのですよ。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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