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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第186号(2015年11月27日配信)

大きな池沼「安潟」の伝承(担当:工藤)

こんにちは!室長の工藤です。

「青森」がこの地に誕生する前後の歴史叙述には、虚実入りまじりのエピソードがあることは、これまでもこのメールマガジンでご紹介してきました。今回もそうした青森市の歴史叙述の謎ともいえるエピソードを取り上げましょう。

昔々、現在善知鳥神社の境内にある善知鳥沼は「安潟」と呼ばれ、周囲が5~6里(約20~24キロメートル)もあり、浪館・金浜・浜館などにまで達する大きな池沼であったといいます(『青森市史』第10巻社寺編)。もちろん、「昔々」のことですから、いつ頃のことなのかは分かりません。そして、17世紀に「青森」がこの地に誕生して町の絵図が描かれるようになった頃には、すでに「大きな池沼」はなくなっています。

善知鳥神社(明治期)
善知鳥神社(明治時代、歴史資料室蔵)

では、この「安潟」、一体いつ頃から記録に残っているのでしょう。天明8年(1788)にこの地を訪れた菅江真澄は、案内人の「草刈の翁」から青森という地名の由来と、後に善知鳥沼となる「大沼」の話を聞いています。ですから、18世紀末にまで遡る伝承であったことは間違いのないところです。そして、実は安潟は絵図に描かれているのです。

江戸幕府が正保元年(1644)に提出を求めた国絵図の写し、「陸奥国津軽郡之絵図」にそれはあります。「青森村」と「沖館村」との間に「やすかた」と記された池沼が描かれているのです。したがって、国絵図の提出の段階で、池沼と認識できる程度のものがあったと考えることはできます。ただ、大きさは東西78間(約142メートル)、南北14間(約25メートル)ですから、周囲が5~6里とされる大きな池沼のイメージとはかけ離れたものといえましょう。

ちなみに、貞享元年(1684)頃の青森町の絵図に描かれた「うとふの沼」は東西104間(189メートル)と記されています。さらにもう一つ、蜆貝町の南側に長さが160間(約290メートル)の池沼が描かれています。この他にも、現在の平和公園通りの東側に池沼が描かれています。藩政時代の青森とその周辺にはこうした池沼がいくつかあり、その一つが「やすかた」として描かれていたのでしょうか(善知鳥沼との関係性は分かりません)。

つまり、「安潟」の伝承は少なくとも18世紀末まで遡ることはできそうです。そして、実際17世紀末の時点で、青森町とその周辺にはいくつかの池沼があったことも間違いないでしょう。ただし、周囲が5~6里にも及ぶ大きな池沼があったということは、目下のところ歴史資料から確認することはできません。その意味では、「大きな池沼としての安潟」がいつ歴史叙述の中で創出されることになったのか、この謎を解くことが次の課題となりそうです。

善知鳥沼(昭和30年代)
善知鳥沼(昭和30年代)

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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