グローバルメニュー サブメニュー
  • 文字サイズ変更・色合い変更
  • Foreign Language

ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第179号(2015年10月9日配信)

ここから本文です。

更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第179号(2015年10月9日配信)

戦時中の淡谷のり子(担当:村上)

こんにちは。嘱託員の村上です。今回は、私が最近読んだ『ヨーコさんの”言葉”』(2015年、講談社)という本からテーマを見つけました。この本は絵本『100万回生きたねこ』の作者として知られる佐野洋子さん(1938-2010)が生前書いたエッセイを題材にしたNHKのテレビ番組を書籍化したものです。

この本に収録されている「ハハハ、勝手じゃん」というエッセイに青森市の名誉市民である歌手の淡谷のり子さん(1907-1999)の名前が登場します。淡谷さんといえば、今年の「かかしロード280」でシンボルかかしのモデルになりましたね。

淡谷のり子さんをモデルにしたかかし
淡谷のり子さんをモデルにしたかかし

佐野さんはこのエッセイで、パーマが禁止されるなどおしゃれが制限されていた戦時中でも淡谷さんが「ぎんぎらぎん」の化粧と「どっ派手な洋服」を通していたことに触れ、「終始一貫淡谷のり子でいよう、死ぬまで変わらぬ個を守り通そうと思うと勇気がわいて来ます」と語っています。

それでは、戦時中の淡谷さんは歌手としてどのように活動していたのでしょうか。

実は、淡谷さんの代表曲「別れのブルース」や「雨のブルース」などの曲は、戦時下にふさわしくないとして発売禁止となり、歌うことを禁じられていました。ほかの歌手たちは軍歌や愛国歌を歌うようになり、ステージ衣装は国民服やもんぺに変わりました。しかし、淡谷さんは軍国調の歌は一切歌わず、ステージではドレスを着続けました。自叙伝『歌わない日はなかった』(1988年、婦人画報社)によると、軍や警察から曲や衣装について指摘され、何度も始末書を書いたそうです。それでも自分の意に反することはしないという思いで活動していたのです。

また、歌手たちは軍の恤兵(じゅっぺい:金銭や物品を贈って戦地の兵士を慰めること)部によって組織され、戦地へ慰問に行くことがありました。淡谷さんも昭和16年(1941)に初めて慰問を命じられ、中国や満州などに派遣されたそうです。戦地では歌うことを禁じられていた「別れのブルース」をリクエストされ、罰を覚悟で歌ったこともありました。そんな時、監視の将校たちは聴かないふりをしてくれたそうです。どんなに禁止されても淡谷さんの歌を聴きたがっている人がたくさんいたのです。淡谷さんの歌が多くの人に愛されていたことがわかるエピソードですね。

今回は淡谷さんの戦時中の活動について取り上げましたが、『新青森市史』通史編第3巻ではその生涯について詳しく紹介しています。棟方志功さんと談笑する貴重な写真も掲載されていますので、こちらもあわせてご覧いただければと思います。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

より良いウェブサイトにするために皆さんのご意見をお聞かせください。

このページの内容は分かりやすかったですか?

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?