ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第178号(2015年10月2日配信)
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更新日:2017年3月9日
こんにちは、嘱託員の鈴木です。
9月11日配信の「あおもり歴史トリビア」第175号で昭和17年(1942)度の浪岡地区北中野の季節保育所のお話をしましたが、今回はそうした季節保育所で働いた女学生たちについてです。
季節保育所は、学校や寺院、教会などで、地元の愛国婦人会・国防婦人会(昭和17年から統合されて大日本婦人会)などの協力で運営されましたが、県の奨励により保育所は増えても人手が足りませんでした。そこで、昭和17年6月から県内初の試みとして、これまで不慣れな農作業等に動員されていた女子中等学校生徒が保母として動員されることになりました。これは、乳幼児の安全な保育、農家の食糧増産応援、また将来の母たる女学生たちの実地訓練という、一石三鳥の策だったようです。
動員にあたり、学校ごとに事前の講習会が開かれ、乳幼児の心得、唱歌、遊戯、保健、衛生、救急措置、栄養の知識などを学びました。
青森市立高等女学校(現県立青森中央高等学校)では学校での講習後、班ごとに女子師範附属、浦町、東奥の各幼稚園や託児所で実習しましたが、さらに学校内に教育保育所を開設し、教師や生徒の弟妹を集めて予行演習をしました。その後、6月上旬から4年生120名が東郡高田、大野、細越、安田、野沢、荒川、上野各村保育所に派遣されました。同じ頃、県下19校の女学生1,660名が学校での講習後、県が割り当てた3市72町村の季節保育所へ派遣されています。
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昭和17年度は、原則として日帰りできる保育所とされていましたが、やはり連日の通勤は大変だったのでしょうか。翌18年度の市立高女4年生の大野・安田・細越各班は鍋や布団を担いで運び、大野国民学校に宿泊することになりました。6月25日付『東奥日報』に、この勤労奉仕に動員された6人の生徒の感想が載っていました。12日間、160人もの子どもたちを相手に先生と呼ばれ、やんちゃな男の子が足を出して「先生洗ってケヘジャ!」と甘えられたり、泣きやまない子に困ったりと奮闘した女学生たちのようすが行間に、にじみ出ています。
やがて、昭和19年3月に「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、中等学校の生徒たちは通年で工場や農作業などに動員されるようになっていきました。
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