ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第174号(2015年9月4日配信)
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更新日:2017年3月9日
こんにちは!室長の工藤です。
今回は、戦後70年との関わりからでしょうか、最近続けて新聞・テレビで取り上げられた鰺ヶ沢町鳴沢地区、岩木山北ろくに広がる「山田野」から話題を一つ。
山田野周辺は、今では春になると一面を黄色に彩る「菜の花」で知られる場所ですが、ここはかつて旧陸軍の演習場・廠舎(しょうしゃ 軍隊の宿泊施設)で、戦後は緊急開拓地として開墾された場所でありました。当時の山田野については、弘前大学の高瀬雅弘先生たちが『山田野―陸軍演習場・演習廠舎と跡地の100年―』(弘前大学出版会 2014年、2015年7月弘前大学出版会賞受賞)という本にまとめています。この本は市民図書館にも所蔵されていますので、関心のあるかたは是非手に取ってみてください。
山田野の菜の花
さて、昭和18年8月、政府は農村の青少年でもって「食糧増産隊」を編成することを閣議決定しました。食糧増産隊は茨城県の内原(うちはら)で訓練の後、拡大しつつあった各地の耕作放棄地などに労働力として派遣されました。そして同年12月末にはこれを再編・強化します(中央編成の甲種と市町村編成の乙種に区分)。このうち、甲種食糧増産隊(少年農兵隊)は農家の後継ぎ(14~19歳の男子)で編成されました(『新青森市史』通史編第4巻)。ちなみに、青森県では昭和20年2月時点で甲種が2,250名(うち東津軽郡193名)、乙種が27,744名いたといいます。そして、青森市域の関係でいいますと、浜館国民学校の昭和19年度の高等科卒業生から、16名が甲種食糧増産隊に入ったという記録があります。
先ごろ、歴史資料室が所蔵する資料の中から甲種食糧増産隊に関する資料を2点、目にする機会があり、このうち1点が先の山田野との関わりを示すものでした。山田野は、甲種食糧増産隊の訓練の場でもあったのです。これによりますと、食糧増産隊への入隊については、市町村・国民学校に割り当てがあったようで、「進ンデ増産隊員ヲ志願スル様指導スルコト」という文言も見えます。国民学校・中等学校の児童・生徒の進路について、学校の指導・影響が大きかったといいますが、この文言からもその一端をうかがうことができます。また、訓練も農業訓練ばかりでなく、軍事教練もありました。そして、山田野では幹部42名・隊員660名により、荒廃地9町歩を開墾したといいます(前出『山田野』)。
戦後70年の今年、歴史資料室では「学校と戦争」というテーマで展示をすることができました。平和を次の世代へつないでいこうという思いのもと、決して戦争の記憶を風化させることなくこれからも取り組んでいこうと思います。
館内展示「学校と戦争」ポスター
(展示は終了しています)
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