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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第168号(2015年7月24日配信)

ねぶたの起源「津軽為信の『大灯篭』の故事」(担当:工藤)

こんにちは!室長の工藤です。

今回は「ねぶた」が目前に迫ってきたということで、先々週に引き続き「ねぶた」に関する話題をひとつ。「青森ねぶた」に限ったことではありませんが、広く津軽のねぶたの起源に関して巷間伝わる3つのエピソードのひとつに「津軽為信の『大灯篭』の故事」というのがあります。

これは、藩政時代の寛政5年(1793)に編まれた「津軽偏覧日記」という記録にみえ、内容を大雑把にいうと、文禄2年(1593)7月の盂蘭盆会(うらぼんえ)の際に、京都に滞在中の津軽為信が灯篭を仕立てて人々に見物させたというエピソードです。ただ、史料の解釈がなおざりにされてきたようで、この「大灯篭」を豊臣秀吉が見たとか、いやいや秀吉ではなく津軽家と縁のある公家近衛家の人物が見たのだといった、解釈もあるようです。また、細かいことを言えば、「津軽の大灯篭」はこの時ではなくて、後にそう言われるようなったと史料には記されています。

大正時代のねぶた
大正時代のねぶた(歴史資料室蔵)

さて、このエピソードには上に述べた史料解釈の問題もありますが、「そもそも」といったところでふたつの「はてな?」があります。ひとつめは「文禄2年7月」という時期、ふたつめはこのエピソードに登場する「長門守」という人物です。まず、時期からいいますと、ちょうど秀吉による「朝鮮出兵」の時期に重なります。当然、為信は前線基地となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に在陣し、少なくともこの年の9月末まではそちらにいた可能性があります。つぎに「長門守」ですが、彼は「服部長門守」であろうと思われます。服部長門守は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦(津軽氏の軍役は美濃大垣城攻め)をきっかけに取り立てられたと伝えられています。したがって、文禄2年にはまだ為信の家臣にはなっていないのです。ちなみに、服部長門守は青森の町づくりに関わった人物のひとりとしても知られています。

ですから、エピソードそのものはともかく、「時期」だけを考えると慶長5年以降でないと舞台設定の辻褄が合わないのです。逆に、慶長5年以降であるとすれば、為信が国元と京都を何度も往復していた時期なので、場面としてはあり得ます。もう少し限定すれば、慶長6年・11年・12年の3か年であれば、7月に京都に滞在していた可能性があります。さて、こうした時期に「灯篭」のエピソード…実証できたら面白いですね。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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