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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第165号(2015年7月3日配信)

津軽氏による外浜への築城構想?(担当:工藤)

こんにちは!室長の工藤です。

藩政時代、この地に青森町ができる前提として、弘前藩第2代藩主の信枚(のぶひら)(為信3男)が「父為信の遺言として外浜に城を築こうとしたもの、幕府の『一国一城令』があったために断念し、港町(=青森)を建設した」というエピソードが、青森市の歴史を綴った本のなかにしばしば登場します。このエピソードは、「『築城』を断念して『港町』へ」という論理の転回が私には理解できない上、現段階では東北地方で適用の事例がないという「一国一城令」が出てくることもあり、正直なところ疑わしい部分を孕んでいるように感じていました。

ところが、藩政時代に青森町年寄を務めた佐藤理左衛門と村井新助とが連名で記した記録のなかに、このエピソードが出てくるのです。内容をごく簡単にいいますと、津軽の独立を達成した津軽為信は外浜の視察に訪れます。この時、為信は横内の妙見堂(現大星神社)の付近に築城を申し付けます。そして、信枚はこの話を京都で聞かされるのですが、彼は場所を妙見堂ではなく北側に変更して申し付け、これが青森の町立てになったというのです。なお、信枚が青森の地に「城」を築かせようとしていたかどうかについては、この記録からは判然としません。

戦前の大星神社
戦前の大星神社(歴史資料室蔵)

現在の大星神社
現在の大星神社

さて、このエピソードの裏付けを取るには、まずは為信が国元から京都へ移動し、しかも信枚が京都に滞在しているという状況がなくてはありません。実は、こうした状況は慶長7年(1602)から同10年にかけて2回ありました。ただ、この時点では、為信の有力な後継者候補のひとりである信建(のぶたけ 為信長男)がまだ存命(慶長12年没)で、しかも国元に滞在していました。つまり、当時の状況を念頭におくと、もし外浜への築城構想が事実としてあるのならば、そこに信建の姿がまったくないというのは考えにくいのです。ですから、このエピソードには、信枚を為信の家督後継者として位置づけようとする後世の潤色がなされている可能性が高く、そのまま容れるのは難しいのです。

ただ、この時期に為信が妙見堂付近に何らかの支配拠点を置こうとしていたのは注目されます。というのは、津軽氏は慶長年間(1596-1615)に横内城を拠点にして外浜地域の支配に乗り出すようになったといわれているからです。そして、まさに「築城構想」のエピソードの時期に重なるのです。ですから、このエピソードは津軽氏による外浜支配の伸展を象徴するもので、横内城がその拠点化されていくようすを指して「城」を築くと表現したのかもしれません。

横内城跡の城域
横内城跡の城域(『新青森市史』資料編2 古代・中世より)

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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