ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第159号(2015年5月22日配信)
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更新日:2017年3月9日
こんにちは!室長の工藤です。
米町(現本町2丁目10番地)に「『青森』発祥の地」の碑があるのをご存知でしょうか。かつてこの辺りに地名「青森」の由来となる「青い森」があったといいます。これについて、昭和15年(1940)に発刊された今田清蔵『青森市誌』には、米町にある「浅井薬店」の敷地内に「青い森」の一部があり、明治43年(1910)5月3日の大火で焼失したと伝えらえると記されています。
「『青森』発祥の地」の碑(本町2丁目)
なるほど、たしかに大正15年(1926)6月発行の地図に、この碑のある地点の西側に「浅井薬局」が描かれています。ですから、米町の「『青森』発祥の地」は『青森市誌』に記されたような「言い伝え」に根拠が求められるようです。
浅井薬局
(大正15年発行「大日本職業明細図之内青森県」、歴史資料室蔵)
そもそもが地名の由緒・伝承ですから、実像・事態が伴わない可能性はあるのですが、いつからこの由緒・伝承が青森の人々の知るところになったのかは興味のあるところです。そこで調べてみると、青森がこの地に誕生した400年前からそう離れていない時期に「青い森」の伝承が存在していることが確認できました。しかも、これを記したのは青森御派頭(後の町年寄)の佐藤理左衛門と村林新助です。これによると、「青い森」は「浜町蜆貝川外」にあったとあります。浜町はおおむね現在の本町2丁目と本町5丁目の北側で、蜆貝川は現在の平和公園通りです。そして「蜆貝川外」とは、平和公園通の東側、現在の青柳1丁目辺りではないかと解釈しています。
最近の研究によりますと、堤川河口部一帯は、藩政時代以前、すなわち中世の時代にさかのぼる湊町であったといいます。「青い森」があった辺りも、この中世の湊町に含まれていると考えられます。つまり、「青い森」の伝承は、かつてこの地に住んでいた人々の「中世の記憶」を伝えるものであったのです。そして、青森の縁起として幕末の安政2年(1855)までは青森町に伝わっていたことが確認できます。
したがって、藩政時代以来の「青い森」の伝承は、明治以降に姿を変え「米町」にあった森となり今に伝わることになります。では、そのきっかけは何だったのでしょうか。これについては、次の課題としたいと思います。
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