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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第156号(2015年5月1日配信)

戦国時代の「いくさ」(担当:工藤)

こんにちは!室長の工藤です。

今回は戦国時代の「いくさ」の話をしましょう。藩政時代に弘前藩によって編さんされた歴史書「津軽一統志」には、後に弘前藩初代藩主となる大浦為信が津軽地域で戦った10の「いくさ」が記されています。このうち、青森市域が戦場となるのは、天正6年(1578)7月の浪岡城攻めと、天正13年3月末~4月初めの油川城攻めのふたつです。

さて、為信の「いくさ」には季節性があります。というのは、「いくさ」はもっぱら3月末~8月中旬、とくに、5月と7月~8月中旬(夏と初秋)に集中しているのです。これは何を意味しているのでしょう。試みに藩政時代の農事暦をこの「いくさ」の時期に重ねてみると、面白いことが分かります。為信は田植えが終了した時期、もしくは出穂から稲刈りが始まるまでの時期を選んで「いくさ」をしているのです。つまり、農作業が一段落して農民がひと息ついた時期を選んでいたのです。逆にいうと、農繁期は意識的に避けられていたのです。

もうひとつ、為信の「いくさ」の特徴をあげると、戦いは短期間で終えられています。その理由を解くカギになりそうなのは、為信の「いくさ」には「忍びの者」と言われる人物たちが登場することです。彼らのなかには長期間に渡って南部領に潜伏する者もいますが、多くは「いくさ」の前に敵の足もと付近の村に潜んで活動をしています。こうした「忍びの者」は、現在13名を確認できます。そして、「津軽一統志」の記述では、浪岡城攻めと油川城攻めの際に「忍びの者」の活躍を伝えています。例えば、浪岡城攻めでは、「忍びの者」を介して為信は博奕打(ばくちうち)や盗賊を味方につけます。そして、城攻めの当日は、火が放たれた浪岡城を混乱させるのに博奕打たちが一役買います。こうした「忍びの者」の活動が功を奏して、「いくさ」が短期間で終えられたのかもしれません。人々に語らい、味方につけることは、戦局を有利に運ぶためにかなり有効な手立てであったようです。

浄満寺にある奥瀬善九郎の墓
浄満寺にある奥瀬善九郎の墓

浪岡城
浪岡城(平成20年撮影)

また、津軽ではなく、南部氏側の記録のなかに、為信は戦国領主として民衆に撫民(ぶみん:民衆をいたわること)を施し、そのため民衆もまたそんな為信に従い戦ったという評価をするものがあります。南部氏にとって為信は敵将ですから、この評価は傾聴に値するでしょう。そして、ここで描かれた為信像は、彼の戦い方にも一脈通じるものを感じませんか。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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