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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第148号(2015年3月6日配信)

進藤庄兵衛と「進藤堰」(担当:工藤)

こんにちは!室長の工藤です。

去年の秋のことですが、藩政時代に青森のまちづくりに尽力した人物のひとり、進藤庄兵衛(しんどう・しょうべえ)について講演する機会を得ました。庄兵衛の功績はいろいろと伝えられておりますが、それを歴史学的に検証しようとするとなかなか骨が折れる作業となりました。何といっても、史料がない‥という壁に突き当たるのです。

そんな庄兵衛の功績のひとつに、「進藤堰(しんどうぜき)」という用水堰があります。もちろん、この進藤堰については史料もなく、場所についてもいくつかの説があり特定することができません。そんな八方塞がりの状況であった頃、ずいぶん前に調査をさせていただいた進藤家の古文書のなかに、短いものではありますが、手掛かりとなりそうな記録を発見することができました。堰の名称は「新堰」とあり、この堰は荒川の「堰口」から柳町にあった青森総鎮守毘沙門堂まで延び、さらにそこから「町中」を東西に通したと書かれています。そして、新堰が完成した後に庄兵衛は「観音神社」を建立(再建)したのだそうです。この「新堰」こそが、後に「進藤堰」と呼ばれるようになったと見立てています。

といっても、荒川の「堰口」がどこを指し、どういうルートで堰が通されたのか。さらには、「町中」という文言は「青森町中」と解釈すべきなのか、など解決しなくてはならない課題はあります。それでも、堰の姿がイメージできるようになったことは収穫です。また、「観音神社」とは、毘沙門堂の北側にあった「青森観音堂」だと思われます。これは、正保2年(1645)に建立され、延宝7年(1679)5月に庄兵衛が再建したと由緒が伝えられています。加えて、弘前藩の公的な記録によれば、庄兵衛は延宝6年から青森に常駐して外浜地域の開発を一手に任されたことが明らかです。ですから、進藤堰はこの地域の新田開発の一環として、庄兵衛の青森常駐後、青森観音堂を再建するまでの1年ほどで開削したものと考えられるのです。

毘沙門堂・観音堂周辺
毘沙門堂・観音堂周辺(『新青森市史』資料編4付図「青森町絵図」〈貞享~元禄初年〉トレース)

私にとっては「謎の進藤堰」であったのですが、解明に向かって一歩前進です。なお、「青森観音堂」の再建も進藤堰の開削と関わりがあります。これについても、いつかご紹介いたします。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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