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更新日:2017年3月9日

「あおもり歴史トリビア」第147号(2015年2月27日配信)

新田にあった青森球場(担当:村上)

こんにちは。嘱託員の村上です。2月17日付の『東奥日報』夕刊・明鏡欄に「青森球場で投げた巨人沢村の英姿」という投稿が掲載されていました。投稿では昭和10年(1935)9月6日、青森市新田にあった青森球場で巨人対全青森の試合が行われたことが紹介されています。そこで、今回は青森球場についてお話しします。

青森球場は青森都市振興会が建設を計画したもので、昭和8年6月に工事を開始しました。場所は現在の東北森林管理局新田宿舎付近(新田2丁目)です。面積は約3700坪、ホームからライトのフェンスまで53間(約96メートル)、レフトまで55間(約100メートル)となっており、市の東部にあった佃野球場(大正13年〈1923〉設置)と比べると少し狭いものの、観客1500人を収容できる規模でした。

青森球場の位置
青森球場の位置
(昭和11年発行「都市計画 青森市街全図」、市史編さん室蔵)

昭和8年9月17日に行われた開場記念試合は函館太洋(オーシャン)倶楽部と地元のユニオン倶楽部の対戦でした。試合の前には青森都市振興会の榛葉(しんば)会長(当時の青森営林局長)が挨拶し、函館太洋倶楽部主将の久慈選手とユニオン倶楽部主将の工藤選手による国旗掲揚、そして多久(たく)青森県知事による始球式が行われました。多久知事が投げたボールを久慈選手がキャッチすると、30羽の伝書鳩が5色のテープを引いて飛び立ちました。試合は5対0で函館太洋倶楽部が勝っています。

この試合に出場した函館太洋倶楽部主将の久慈次郎選手(昭和34年に野球殿堂入り)は、青森市にゆかりのある人物でした。久慈選手は明治31年(1898)に青森市で生まれ、幼少期を盛岡で過ごしました。盛岡中学校(現盛岡第一高校)、早稲田大学を経て大正11年に函館太洋倶楽部へ入部しています。函館市の千代台公園野球場には「球聖久慈次郎の像」があるということで、ぜひ見てみたいと思いました。

さて、こうして開場した青森球場は都市対抗野球などの試合で利用され、青森市を代表する野球場になりました。しかし、戦後は土地の一部が売却されて営林局の官舎になったということです。現在、東北森林管理局新田宿舎前には「青森野球場跡の碑」と解説板が設置されています。

「青森野球場跡の碑」と解説板
「青森野球場跡の碑」と解説板

※今回の内容は『新青森市史』通史編第3巻、『町会の道』(沖館第三町会)、『大正8~昭和40年 青森林友野球部戦績総覧(未定稿)』(青森林友野球部OB有志)などを参考にしました。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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