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更新日:2016年1月8日

「あおもり歴史トリビア」第135号(2014年11月28日配信)

「弘前大学医学部発祥の地」のその後(担当:村上)

こんにちは。嘱託員の村上です。

皆さんは中央市民センターの敷地内に「弘前大学医学部発祥の地」という碑があることをご存じでしょうか。昭和19年(1944)から昭和22年まで、この場所に弘前大学医学部の前身である官立青森医学専門学校(以下、医専)がありました。

「弘前大学医学部発祥の地」の碑
「弘前大学医学部発祥の地」の碑

医専の校舎として使われたのは、昭和12年に建てられた市立野脇尋常小学校(昭和16年に野脇国民学校と改称。現在の堤小学校)の校舎でした。校舎を医専へ移管するため、野脇国民学校は昭和19年3月に一度廃校となったのです。

昭和19年5月に開校した医専は、昭和20年の青森空襲で附属病院と寄宿舎を焼失し、昭和22年に弘前市へ移転します。しかし、校舎は焼失を免れており、戦後も使われました。今回はこの校舎の戦後の歩みを三つの時期に分けてご紹介します。

第一の時期は、市立野脇中学校(現在の南中学校)の校舎として使われた昭和22年4月から昭和24年3月までです。この時期には戦災で校舎を失った市立第二中学校(昭和23年に青森市立高等学校と改称。現在の県立北斗高校)も校舎の一部を利用しています。

さらに、昭和22年9月に県立青森高等女学校(昭和23年に県立青森女子高等学校と改称。現在の県立青森高校)が火災で校舎を焼失したため、野脇中学校で授業を行うことになりました。一つの校舎を、午前中は野脇中学校の生徒が、午後は青森高等女学校の2・3年生が、夕方からは第二中学校が利用するという三部授業の状態が続きました。

昭和23年5月、青森女子高等学校が浪打に建設された新校舎へと移転し、三部授業は解消しました。また、7月には市立高等学校が、翌年3月には野脇中学校がそれぞれ新校舎へと移転し、旧校舎は次の学校へ引き継がれました。

市立高等学校
市立高等学校
(昭和20年代後半、
『復興した 新しい青森』より)

野脇中学校
野脇中学校
(昭和20年代後半、
『復興した 新しい青森』より)

第二の時期は、市立野脇小学校の校舎として使われた昭和24年4月から昭和29年9月までです。野脇小学校は昭和19年に廃校となった野脇国民学校が復興したものです。野脇小学校は昭和29年に新校舎(現在の堤小学校の位置)への移転を行い、旧校舎には次の学校が入りました。

野脇小学校
野脇小学校
(昭和20年代後半、『復興した 新しい青森』より)

第三の時期は、市立松原中学校の校舎として使われた昭和29年9月から昭和40年3月までです。松原中学校は昭和25年の開校以来、市立高等学校の校舎の一部を使用して授業を行っており、開校5年目にようやく独立校舎を得ることができたのです。この校舎は昭和40年3月に松原中学校が閉校するまで使われました。

松原中学校
松原中学校
(昭和20年代後半、『復興した 新しい青森』より)

そして、跡地には昭和44年10月に青森市民文化センター(現在の中央市民センター)が開館したのです。

※今回の内容は『青森高校百年史』、『青森県立北斗高等学校創立六十周年記念 北斗七星』などを参考にしました。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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