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更新日:2016年1月8日

「あおもり歴史トリビア」第129号(2014年10月17日配信)

青函シリーズ(1)箱館開港と青森町(担当:工藤)

こんにちは! 室長の工藤です。

青森市と函館市とは、昭和63年(1988)3月の青函トンネル開通を契機として、翌平成元年(1989)3月に、幅広い分野にわたる友好と発展を願い「ツインシティ」提携の盟約を締結しました。それから25年を迎える今年は、来月予定されている記念式典のほか、これまでもさまざまなイベントが実施され、私も先月末に行われた函館ハーフマラソンに「青函交流ランナー」のひとりとして参加させていただきました。

2014函館ハーフマラソン大会
2014函館ハーフマラソン大会

そこで、この「あおもり歴史トリビア」でも、今回から4週連続で「青函」をテーマに各執筆者の興味のある話題を取り上げることにいたしました。初回となる今回は、江戸時代の末期、安政元年(1854)に締結された「日米和親条約」で箱館の港が外国に対して開かれたことによる、青森町への影響の一端についてご紹介しようと思います。

さて、箱館が開港したことで、江戸幕府は蝦夷地の行政を担当する箱館奉行をそこに置きました(正しくは再置)。そして、青森浜町の豪商滝屋家の記録によりますと、これまでは三厩(現外ヶ浜町)や佐井(現佐井村)が幕府や諸藩の役人の箱館への主たる渡航地であったのにも関わらず、安政3年の箱館奉行堀利熙(ほり としひろ)一行は、佐井からの渡航を急遽変更し青森町からの出帆としました。しかも、箱館奉行一行が箱館へ渡るための船は現地調達となり、滝屋では取引のある商人の手船を調達し、さらには宿も提供するなど大わらわだったようです。

その後、幕府の役人が青森町を箱館への渡航地とするケースが多くなりますが、彼らが支払うわずかばかりの旅籠(はたご)料では滞在費を賄うには十分ではなく、不足分は町民負担ということになりました。これに対して青森市中では「青森大疲労」と嘆いたようです。

2010年に復元された箱館奉行所
2010年に復元された箱館奉行所

そのようななか、皆さんよくご存知のジョン(中浜)万次郎も幕府の役人のひとりとして米町の西沢善兵衛のもとに宿泊したという記録も残っています。さらに、しばらくすると外国船と外国人が初めて青森町にやってきました。人々は見物のために「大群衆」になったそうです。このように、箱館の開港は青森町にも少なからず影響がありました。とくに、箱館への渡航地としての青森町の位置づけは、この後の箱館戦争によってさらに政治・行政的な意味での重要度を増すことになり、明治4年(1871)の県庁移転によって誕生した「県都青森」への下地となったともいえるのです。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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