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更新日:2017年3月17日

「あおもり歴史トリビア」第127号(2014年10月3日配信)

版画家・関野凖一郎と青森市(担当:村上)

テキスト10月4日から青森県立美術館で「生誕100年 昭和の版画師 関野凖一郎展」が開催されます。そこで、今回は青森市出身の版画家・関野凖一郎(1914-1988)をご紹介します。

関野凖一郎は大正3年(1914)、青森市安方町の肥料問屋の長男として生まれました。大正10年に入学した新町小学校の同学年には、版画家となる佐藤米次郎・根市良三がいます。根市は様々な文学書や画集を持っており、関野はそのコレクションから大きな影響を受けました。

関野凖一郎ゆかりの地にある解説板

関野凖一郎ゆかりの地にある解説板2

関野凖一郎ゆかりの地にある解説板(安方二丁目)

昭和2年(1927)、関野は佐藤・根市とともに青森中学校(現青森高校)へ進学しました。関野は美術雑誌『みづゑ』版画号から版画の知識を得、通信販売で木版用具を揃え、版画誌に作品を発表するようになります。

青森県で最も早く作られた版画誌である『緑樹夢』は中学3年のときに佐藤・根市と柿崎卓治によって創刊されました。柿崎は油川の出身で本来一年先輩でしたが、病気のため留年していました。身体が弱かった3人は体育関係の授業を見学することが多く、校庭の緑の樹の下で絵のことばかり話していました。それが縁で「緑樹夢社」を結成し、版画誌を作ることになったのです。

『緑樹夢』には同学年の福島常作(ふくしま つねさく)なども参加し、関野は『緑樹夢』3号(昭和6年発行)に作品を発表しています。『緑樹夢』は3号で終刊となりますが、版画誌の発行は『彫刻刀』、『陸奥駒』と継続して行われました。

中学卒業後、関野は家業を手伝いながら版画の制作を続けました。関野の最初の師となったのは弘前市出身の画家・今純三です。関野が今と初めて会ったのは、版画誌『彫刻刀』に賛助出品してもらうため、勤務先を訪ねた時でした。関野は今のアトリエに通い、銅版画・石版画を学びました。そして、昭和14年に上京して版画家・恩地孝四郞(おんち こうしろう)に師事します。

今純三ゆかりの地にある解説板
今純三ゆかりの地にある解説板(造道二丁目)

その後、関野は昭和26年に自宅で銅版画研究所を開き、昭和28年頃から国際展に出品するようになります。昭和33年にロックフェラー財団の招きで渡米し、帰国後、旅先の風景や人物をモチーフとした作品を制作し、国際展での受賞を重ねました。

ちなみに、青森市民図書館7階では企画展示「青森出身の版画家たちと『本』」を10月7日まで開催しており、関野凖一郎等による私刊本や蔵書票、本の表紙絵の原画など貴重な資料が展示されています。

『市史研究あおもり2』
関野凖一郎作「青森駅」を
表紙に用いた『市史研究あおもり2』

『市史研究あおもり5』
関野凖一郎作「柳町朝市」を
表紙に用いた『市史研究あおもり5』

なお、青森市における版画家の活動については『新青森市史』通史編第4巻でも取り上げておりますので、ぜひご覧ください。

※『青森県史』文化財編 美術工芸(青森県)、関野凖一郎『版画を築いた人々』(美術出版社)などを参考にしました。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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