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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第99号(2014年3月14日配信)

青森空襲の日の太宰治(担当:工藤)

事務長の工藤大輔です。

先日、津軽の冬の風物詩のひとつ「ストーブ列車」で金木(かなぎ)まで行き、駅と斜陽館までの道のりのちょうど中ほどにある「太宰治疎開の家『津島家新屋敷』」を訪ねました。太宰治(津島修治)一家が戦争末期にふるさと金木にいたということは…そう、青森空襲のあった昭和20年(1945)7月28日はどこにいたのだろう、すでに金木にいたのかしら、そんな疑問がふつふつと湧いてきました。


太宰治疎開の家「津島家新屋敷」(五所川原市金木)

そこで、家にある太宰の作品を繰っていくと、「たずねびと」という短編にたどりつきました。この作品は、まさに太宰が家族とともに上野駅から列車に乗り、ふるさとへ向かう間のエピソードを綴っています。この作品の記述に従って読んでいくことにしましょう。日付は「七月の末」としかありませんが、郡山駅では「駅は、たったいま爆撃されたらしく」と、7月29日の郡山空襲に関する記述があります。そして、その前日「上野駅のコンクリートの上にごろ寝をしていた夜には、青森市に対して焼夷弾攻撃が行われたようで」とあり、帰途につく直前に青森空襲の報を耳にしていたことがわかります。この時、太宰は「いつになったら津軽の果の故郷へたどり着くことが出来るやら、まったく暗澹(あんたん)たる気持ちでした」と心の内を明かしています。

また、青森を代表するもうひとりの「しゅうじ」寺山修司は、昨年12月27日配信の「あおもり歴史トリビア」第89号でもご紹介したとおり、青森市内で空襲に遭っていたのは多くのかたがご存知のことでしょう。そして、太宰治、寺山修司をはじめ本市にゆかりのある文人たちについては、間もなく刊行の『新青森市史』通史編第3巻・第4巻(明治時代以降の歴史叙述です)でも大きく取り上げています。


昭和20年 県会議事堂から青森駅方面を望む
(青森市発行『目で見る青森の歴史』より)

「歴史の本」といえば、政治や軍事といった内容がまずは頭に浮かぶかもしれませんが、『新青森市史』の通史編では、地域によって育まれた文芸や文化活動、さらには、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」をイメージさせるような、身近な市民生活のようすなどにもスポットをあてています。今回は2冊同時刊行となります。是非ご一読を!

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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